He became a woman.54.
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 この間までベッドから出るのがつらいほど寒かったというのに、近く桜が咲くであろうと気象庁の開花予想が発表されたのはつい先日、3月の半ば頃だった。今日は朝から生憎の天気で、ベランダに面した窓を小さな無数の雨粒がぶつかっては垂れていくを繰り返している。しとしとと降り注ぐ春時雨は昨夜から降ったりやんだり、気紛れに地面を濡らしているようだ。こんな日にもロードワークと称して外へ赴く恋人は、きっとこの後濡れねずみのようになって帰って来るに違いなかった。高校教師でもありプロヒーローでもある彼はこんな言い方をすると失礼かもしれないが、ちょっぴり小汚い雰囲気の見た目に反し、そういうところはとてもストイックなのだ。雨足が強くないとはいえ長時間冷たい雨に晒されては寒かろうと、そう思った僕は洗濯物を畳む手をとめ、今は風呂を沸かしている。天井近くにある小さな換気窓のすりガラス越しにどんよりとした灰色の曇り空が見える。雨は朝見たときよりもやや激しく窓を叩き、この中を走る消太くんに思いを馳せざるを得ない。恐らく彼は冷え切って戻るだろうし、お湯の温度は少し高めがいいだろうかとか、あんまり熱いとかじかんだ体には刺激が強すぎるだろうかとか、四角く切り取られた空を眺めながら湯船に手を入れ温度を確認していると、玄関のドアが開く金属音が聞こえてきた。浴槽の縁に腰をかけていた僕はすぐさま立ち上がり、濡れた手をバスタオルで拭ってから音のした方へ顔を覗かせる。玄関には黒いレインウェアに身を包んだ大柄な男性が、自身の体についた雨水を振り払うように体を揺すっていた。濡れた動物が水を払う動きに似ていると思うのは、きっと僕が、消太くんを黒猫みたいだと思っているからなのだろう。丁度手にしていたバスタオルを人影の前に差し出すと、フードを片手で下ろした恋人が、前髪から水を滴らせながら顔をあげた。

「おかえり、消太くん。随分濡れちゃったね」

 ウェアの至るところに桜の花びらをくっつけた恋人が「ああ」と小さく返事をする。黒い中に桃色を散りばめ目を引く配色になった消太くんは、ジョギングで息切れしているためか肩を上下に弾ませて、話し出す前に一度唾液を飲み込んだ。

「河川敷走って来た。あっち結構咲いてたぞ、桜」

「うん、そうみたいだね」

「なんだ、知ってたのか?」

 僕は笑って首を横に振った。

「ううん、今知った。消太くん、いっぱいお土産つけてるから」

「お土産?」

 訝しげに眉間にシワを寄せた彼の肩に手をやり、僕はそこについたピンク色の花びらを摘んで見せる。ジョギングしていただけでこれほど花弁を引き連れているのだ、その河川敷が春色に染まっている様子は容易に想像がついた。とはいえ実際にそれらを目にしたわけではなく、僕の行動圏内にはまだ今年の桜前線は訪れていない。「お花見行こうかな」ポツリと呟いた独り言を、恋人はしっかり拾ってくれた。玄関に小さな水たまりを作るウェアを脱ぎながら「行くか?」と言葉が返される。

「え? お花見?」

「ああ。夕方には雨もやむだろ。夜行くか。缶ビール買って」

 雨に濡れた夜桜が、まるで観光を推進するCMのワンカットのように脳裏によぎった。月明かりの中、河川敷を彩る枝垂れ桜に露が滴る様はいかにも趣深くさぞ美しい光景だろう。それを肴に花見で一杯だなんて、やっぱり僕の恋人はほんの少しだけおじさんくさいところがある。まだ見ぬ景色と恋人との花見デートに想いを馳せては胸を躍らせつつ「夜桜見物だなんて、情緒があっていいね」などと月並みな感想を漏らす僕に、当の消太くんは表情1つ変えぬまま「いつ見ても桜は桜だよ」と身も蓋もないことを言った。確かにそれも一理あるものの、既に着眼点が違っている気がする。ここが文系の僕と理系の消太くんを隔てる感性という大きな壁ということなのだろう。レインウェアから垂れる水で靴を濡らさぬよう慎重な手つきでそれをバケツに放り込む彼に、僕は若干拗ねた口調で「えー、消太くん風情がないなあ」と批難してみる。すると僕の年上の恋人は「俺に風情を求めるのはお前くらいだよ」と、呆れたような何ともいえない苦笑いを浮かべ、僕の唇に自分の唇を押し付けるのだ。

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170405