He became a woman.51.
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「爪牙、ちょっとこっち」
テレビを見ながら洗濯物を畳んでいると、不意に消太くんが僕を呼んだ。口に歯ブラシを突っ込んだまま手招きをする彼は先ほど起きたばかりなのでまだ眠たげな顔をしている。もっとも、消太くんはいつも気だるげな顔でボサボサの髪をしているため普段と大差ないと言えば大差ないのだけれど、それを本人に言うと拗ねてしまうから言わなかった。持っていた黒いシャツをソファに置き、恋人の手招きに誘われた僕は彼についていく。誘導されたのは洗面所だ。電動歯ブラシなのに電源はオンにせず、シャコシャコと手動で歯を磨く音を聞きながら一体何事だろうと彼を見上げると、口の端に泡を滲ませた消太くんが、ん、と床を顎で示した。意味が分からず消太くんを見上げ「なに? どうかした?」と聞くと、彼は「隙間。キャップ落ちた」なんて簡潔に答える。言われてもう一度床に視線を落として洗面台と洗濯機の間に目を凝らすと、確かにそこには白いものが落ちていた。きっと歯磨き粉のキャップなのだろう。消太くんもうっかり落とすことがあるんだなあとある意味当然なことを考えつつ、僕はしゃがんだ。
「俺の腕じゃ入らねえ。爪牙ならいけんだろ」
「えー、僕も腕太いから多分無理だよ」
「細いよ。いいから」
前々から何となく気付いてはいたのだが、消太くんは僕のことをとんでもなく細いと思っている節があった。そりゃあ肩幅もあり筋肉もついている彼に比べれば僕の腕なんて痩せ細って見えるかもしれないけれど、それでも僕は一応男なのだ。女の子より腕も太いし、手や足だって比較すれば当然大きい。僕のことが大好きな消太くんはきっとフィルターがかかって見えてるに違いない。期待を裏切る結果になったら申し訳ないなあと思いつつ、促されるままに渋々隙間に腕を入れた。測ったわけではないため実寸は分からないけれど、パッと見で10センチくらいのその隙間はやっぱり腕を突っ込むにはやや狭い。流石に拳は入らないから広げた手を縦にして、そのまま奥へと腕を押し込んでいく。何とか入りそうだけど、結構キツキツだ。精々肘までが限界だろう。目一杯腕を差し込む僕の背後で「すげえな、入んのか」と消太くんの驚いた声がする。取れと言ったのは消太くんの方なのに、本当に入るとは思ってなかったと言わんばかりの口振りだった。指を伸ばすと中指の先にプラスチックの硬い感触が触れて、この距離ならいけそうだと確信した僕はそのままそれに指をかけ引きずり出した。埃のついたキャップを手で払い、中腰で僕の手元を覗き込む恋人にそれを渡す。
「はい、どうぞ」
「サンキュ。本当に取れるとはな」
「あはは、意外といけるもんだね」
「意外じゃねえよ。やっぱお前細いな」
「もー、細くないってば」
「細い。ほれ」
ほれ、と言って僕の隣に消太くんもしゃがみ込み、僕がさっきしていたのと同じく隙間に向けて腕を差し込んだ。筋肉の少ない僕は丁度肘の辺りまで隙間に入ったが、実演してみせる彼のそれは、前腕の半ばほどで隆起した筋肉に遮られ突っかかっていた。「な」と半笑いで消太くんが僕に振る。自嘲気味な表情をされても僕としてちょっぴり悔しくて、そしてすごく羨ましかった。一度でいいから「筋肉で腕が太いから隙間に入らない」だなんて言ってみたいけれど、自称も他称もインドアと称される僕にはきっと叶わぬ夢である。
消太くんの中にはまた僕が信じられないほど細いという印象を植え付けてしまったみたいで、彼は僕より一回りほど太さのある逞しい腕で、ヒョロヒョロした僕の手首を掴んだ。直径を確かめるみたいに肘までをムニムニと揉んでいる。彼の期待に応えられて嬉しいような、言外に頼りないと言われて悲しいような、複雑な気分になりながらも、腕についた埃を軽く払って立ち上がった。口に電動歯ブラシを咥えたままの消太くんもそれに倣って立ち上がる。きっと消太くんは僕のことを細いとか折れそうとか思っているのだろう。僕もあと10年くらいしたらもう少し逞しくなるのだろうか。カッコよくて頼りになる恋人を見上げると彼の親指が僕の唇をなぞって「爪牙は可愛いな」なんて言うものだから、ほんのちょっとだけ、可愛がってもらえる今の体でよかったなあなどと、現金なことを思うのだ。
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170329
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