He became a woman.49.
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僕は子供の頃からあんまり虫が得意ではなくて、同世代の友人たちがカブトムシやセミを捕まえる中、それを遠巻きに眺めている方だった。カブトムシ、バッタくらいなら何とか触れるがどちらかと言えば触りたくなかったし、家の中に現れたゴキブリとかクモだとか、ああいった衛生害虫、不快害虫なんかは背すじがゾッとするため近寄るのさえ嫌だ。実家にいたときは母と父が摘んでポイと外に捨ててくれていたし、こと姉に関しては積極的に殺虫して回る人だったから、誰かしらに頼めたのだけれど、消太くんと同棲してからというもの、夏が怖くて仕方なかった。消太くんが在宅中なら彼に頼めば外へ逃がすなり何なりしてくれる。でも今のように彼がいないとき、僕はどうしたらいいのだろう。トイレのドアに張り付く手の平サイズの巨大なクモを眺めながら、スプレーあったかな、なんて冷や汗を垂らしながら僕は考えていた。
トイレに行きたいと思ったのは多分1時間くらい前だ。入浴を済ませ夕飯の支度をし明日の持ち物を用意して、さてひと心地ついたのでトイレに行こうと立ち上がってこれだ。僕の侵入を拒むかのようにドアノブ付近に鎮座するクモはお尻が大きくて足が長くてこれがまた結構気持ち悪い。男なのに虫くらいでキャーキャー言うのは情けないとかカッコ悪いとか思ったこともあったけど、いざ虫を前にするとそんなのはもはやどうでもよかった。男にだって苦手なものくらいある。二十年あまりを他人に甘えて虫退治を怠った結果、僕は彼らを退ける手段を失ってしまった。叩いて殺すのは到底出来そうになかったし、かといって手で掴んで逃がすのは無理だ。素手なんか特に絶対不可能だ。放っておこうにも僕の膀胱はそこそこ限界に近くて、何重もの意味で切羽詰まっている。どうしよう、消太くんまだ帰って来ないかな。風呂場で用を足すのは抵抗があるし、いっそ最寄りのコンビニへ行って排泄欲だけでも解消した方がいい気がする。でも今家を出て、帰った時に玄関の上からクモが降ってきたらどうしよう。頭の中をそんな不安がグルグル渦巻いて僕の判断が鈍ってくる。とりあえず、消太くんに連絡しよう。でも仮に仕事中だった場合、虫くらいで連絡したら怒られちゃうだろうか。どうしよう。どうしよう、しか考えられないくらい僕は今パニックに陥っていた。我が物顔でドアノブを守るクモを視界に捉えつつ、ひとまずメールで連絡してみる。「仕事中? 電話していい?」という簡潔な内容を打ち込む途中でクモの長い足がピクリと動いて僕もビクッとする。気持ち悪いから動かないで、と理不尽に祈りつつメールを送って、数分もしないうちにケータイが鳴った。またビクッとしながら慌てて通話ボタンを押し、目線はそのままに端末を耳に押し付けた。
『どうした?』
消太くんの低い声だ。ほんのちょっとだけ安心する。
「消太くん、忙しかった?」
『いや。今から帰るとこ』
「どのくらいで帰れそう?」
『どうかな。公共機関の混雑具合による』
それは僕にも見当がつかない。絶望的な状況に沈黙した僕に『なんで』と彼はすかさず聞いた。
「虫……クモが、トイレのドアにいて入れない……」
『掴んで捨てりゃいいだろ』
「出来ないって知ってるくせに……」
『まあな』
クツクツと笑い声が聞こえた。僕がこんなに焦ってるのに笑うなんてひどい人だ。意地悪すぎる。
「消太くん、お願い。早く帰ってきて。僕おしっこ漏れそう……」
『風呂場ですりゃいいだろ』
「やだよ! それは本当に緊急なときの手段だよ」
『ならコンビニ行け』
「家入れなくなっちゃうよお……」
考えてることが全く同じだった。嬉しいような今はそれどころじゃないような、とにかく尿意と不安で頭が混乱している。話す僕の声もみっともないほど震えていた。
「お願い、消太くん……早く帰ってきて……」
『いいからコンビニ行け。迎え行ってやるから、一緒に帰ればいいだろ』
「本当? 先に家入って、クモいないか確認してくれる?」
『ああ。だからまず便所行け。漏らすなよ』
「漏らさないよ……ありがとう、消太くん大好き……」
『はいはい。ったく大袈裟だよお前は』
全然大袈裟じゃない。恐らく全世界の虫嫌いな人々はみんなこんな感じに決まってる。消太くんは苦手じゃないからそう思うだけだ。電話を切り、ケータイと、リビングに置いたままのサイフだけをポケットにねじ込んで、クモを刺激しないようそっと家を出る。状況は改善されていないものの、どうにか失禁はしなくて済みそうだ。施錠したあと歩いて数分のところにあるコンビニへ早足で向かいながら、消太くんが乗るであろう電車の乗車率を調べるのだった。
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170318
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