He became a woman.37.
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「おい、お前それ何だ」

 帰ってくるなり消太くんは不機嫌そうな口振りで僕にそう言った。普段ならば抱き着いたりキスしたり、彼が甘えん坊たる所以を発揮するというのに今夜はどうにも機嫌が悪そうで、そんな彼が何を指して憤っているかなど、みそ汁をかき混ぜていた僕にはさっぱりわからなかった。お玉を操る手を止め僕は振り返る。見上げた消太くんの眉間にはシワが寄っていて、今にも舌打ちを鳴らしそうな表情だ。

「おかえり消太くん、急にどうしたの?」

「質問に答えろ。それは何だ」

「えーっと、どれ? 何のこと?」

 チッ、と舌打ちが返される。どうやらとんでもなく怒っているみたいなのだが、残念なことに僕には全く心当たりがない。何かしてしまったのだろうかと頭を巡らせても最後に彼と話をしたのは今朝のことで、その時の消太くんの様子はいつも通りだったはずだ。目を瞬かせ思案に耽る僕を睨むように見据えた消太くんが「気付かねえわけねーだろ。ちょっと来い」と、強引にグイッと腕を引く。いつもは取らない乱暴な行動だ。何故かわからぬまま怒られ若干の不安があるにも関わらず、僕はそんな威圧的な消太くんの態度にもちょっぴりキュンとしてしまう。我ながら彼にはベタ惚れだなあと思った。
 腕を引かれ連れ込まれたのは洗面所だった。僕の肩を掴み鏡の前に立たせた消太くんが背後に回り、右手で僕の顎を掴んでくる。消太くんの大きな手は帰宅した直後のせいかじっとり汗ばんでいた。近頃は夜になっても気温が下がらず蒸し暑い日が続いているし、そんな中をこの暑そうな黒いヒーローコスチュームで出歩いているのだから当然といえば当然だ。鏡に映る僕の顔も日焼けしたのか、冬に比べて少し黒くなっているような気がする。掴まれた顎が持ち上げられ、意味もわからずされるがままに上を向き、そこでようやく、僕は消太くんが何に対して怒っているのかに気が付いた。

「どこでつけられた。俺がつけた痕じゃねえ。朝はなかった」

 僕の首筋に、親指の爪ほどの大きさをした赤い痣があった。僕は思わず笑いそうになる。消太くんはこれをキスマークだと勘違いし、僕がどこかで浮気したのではないかと疑っているわけだ。この数分間の出来事がパズルみたいに頭の中で組み合わさって1つの答えになった。消太くんは可愛い人だ。こんなに彼のことが大好きな僕が、他の人と浮気などするはずがない。冷静で頭のいい彼ならばそんな不確定要素は切り捨て可能性を1つずつ排除していくはずなのに、彼はこの痣を見た瞬間、その冷静さを欠くほど激昂したのだろう。僕のことが本当に好きで仕方ない彼が愛しくてたまらず、ニヤけそうになる頬を引き締めながら恋人の手を指先でつついた。

「消太くん、これ、虫刺されだよ」

 ピク、と消太くんの目尻が痙攣する。つまらない嘘をつくなとでも言いたげだ。

「そんなわけあるか。虫刺されなら腫れてるはずだ」

「刺されたの通学途中だもん。もう腫れは引いてるし、痒みもないよ」

「…………」

「友達に聞いてみようか? 大学でもからかわれたし、多分みんな朝からあったって言うよ」

「……………………」

 消太くんはダンマリだ。僕は嘘をつくと露骨に顔に出てしまうので彼はそれを見抜こうと鏡の中の僕をジッと見つめている。いくら凝視されたところでやましいことなど何1つない僕は、真面目な顔を取り繕うのに一生懸命だった。

「……本当なのか」

「本当だよ。浮気なんてしてないし、僕が好きなのは消太くんだけだよ。信じられない?」

「信じるとか信じないとかの話じゃねえだろ」

 少し冷静さが戻ってきたみたいだ。ゴクリと唾液を飲み下した消太くんが唇を舐めて僕の答えを待っている。

「えー、じゃあどうしたら証明出来るかなあ……荷物検査してみる? ケータイ確認してもいいよ」

「そこまですんのか」

「だって浮気してないからね。大好きな消太くんに疑われたままなんて嫌だよ」

「…………」

 消太くんはまた黙りこくった。笑いを堪えた様子で鏡の中にいる僕の目を見つめ、そのあと視線を落とし、首筋についた虫刺されを睨みつけている。「よく見て。キスマークじゃないよ」顎を掴む消太くんの手を引き剥がし、彼が見やすいよう更に上を向いた。確かに虫刺されは腫れが引くとキスマークに見えなくもないが、それにしたってこんな場所から血を吸うなんて迷惑な蚊だ。ピクリとも動かない恋人にショータくん、と呼びかけてみる。彼ははあと大きなため息をついたあと、僕の肩に額をグリグリ押し付けてきた。

「……すまん」

 勘違いだと理解してくれたようだ。安心した僕はホッと息を吐き出し消太くんの頭を撫でる。

「ううん、いいよ。信じてくれたの?」

「浮気だったら痕はつけさせねえ。いくら抜けてても、お前はそこまでバカじゃない」

「えー、そこ? 消太くんひどいなあ」

「だから、お前はそこまでバカじゃない」

 遠回しにマヌケだと言われたような気がしたが、普段から言葉が足りない恋人はちょっぴりヘタクソなフォローをしつつ「紛らわしいんだよ」と文句を言っている。まあ、消太くんが納得してくれたのならそれでいいというのが僕の意見だ。背の高い恋人へ向き直りその顔を覗き込むと、彼はバツの悪そうな表情で目を泳がせていた。

「もう怒ってない?」

「ああ……悪かった」

「うん。僕も怒ってないから、仲直りしようね」

 ん、と僕の可愛い消太くんは頷いた。くしゃくしゃの髪に指を差し込むとそこは熱を持ち汗で湿っていた。ゆっくりと頭を撫でながら消太くんにキスをする。彼はようやく微かに笑みを浮かべて、もう一度唇を押し付けてきた。遠くでみそ汁が噴きこぼれる音が聞こえて僕はあっと声をあげる。

「お鍋の火、消し忘れてた」

「俺が片付ける。爪牙は座ってていいよ」

 罪滅ぼしのつもりかそう言った消太くんが、先ほどとは違い優しい手つきで僕の腕を引いた。僕の恋人は他のカップルに比べて独占欲の強い人かもしれないけれど、これだけ愛してもらえるのはやっぱり幸せで、僕はもっと消太くんのことが好きになった。

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170122