チョコレート塗れの手をぎゅうと握りしめて、オーブンの前で唯々願うことにした。




お菓子作り。大人しすぎたせいで昔は趣味でやってそうなんて言われたことのある華々しい言葉だが、生憎と今日この日が初体験だった。上手くとりきれなかったボウルに残った生地をお湯で溶かしながらため息をつく。
簡単にできると書かれると何故かやりたくなくなると言う性分のせいで、レシピを決めるだけで何時間とかかってしまった。やっと決まったのはちゃんとした(簡単、とか、お手軽とか書いてない)お菓子作りの本に載っていた「ガトーショコラ」。ボリュームと何やら凝っている感じがとても調度いいのでこれに決めた。のはよかったのだがまさか3回連続失敗するとは思わなかった。



一回目、黒焦げ。二回目、生焼けのまま落下。三回目、小麦粉を入れ忘れて慌てて焼く寸前に突っ込んだためダマだらけ。ため息をつけば軽量の時に零した小麦粉が吹き飛んだ。ああ、掃除しなければ。



甘い匂いの染みついた台所に散らばった調理器具をよろよろとまとめながら、それでも気になって仕方なくなっていつの間にか足がオーブンに向いている。初め手の作業なのだから仕方ないと思いたい。
オレンジ色の光に包まれた其れは、未だにどろどろで何とも水っぽくて焼けるのかが心配になるが、それで火力を上げて火災報知機を鳴らしたのがさっきの私だ。もう狼狽えない。もう騙されない。






ぼんやり、茶色く汚れたエプロンを外して、椅子に座る。泣いても笑ってもこれがラストチャレンジなのだ。失敗用の材料費もチョコが次々と品薄になっていく中辛うじて購入できたくーべるつーるなる高いチョコレートもすっからかん。今日この頃あらゆる食品コーナーから立ち上る匂いと同じそれから逃げる様に、伸びに伸びてしまったカーディガンの袖に顔を鎮める。





せめて、全部とはいかなくても半分くらいは、伝わってくれるなら........そんな思いを抱いたまま、ただただぴーとオーブンが出来上がるのを待つ。









*    *    *


かつんと言う音に、小動物のごとくバッと反応して玄関の方を見る。何時の間にそんな時間だったんだと、何とか、どうにか写真のように焼けて、少々歪な蝶結びでラッピングされた其れと廊下を何度も往復する首を何とか止めて、少しごちゃっと未だ片付いていないテーブルを大急ぎでバタバタとまとめ、た所で、リビングの扉がガチャンと開いた。



「っ、お、か、えり.......なさい、妙才様」

「おー、声がしねぇからいねぇと思ったぞ、ただいまなまえ」



昔言い慣れないと言っていた「ただいま」が板につくくらい一緒にいるのに、私はまだいい慣れていたはずの「おかえりなさい」が満足に言えずにいて、予定調和と言わんばかりに、当たり前に降ってくる妙才様の手を頭で受け止めて何も言えない自分のなんと小さいことか。いや、何をぐじぐじしているんだ。今日ばかりはこのままで終わらせるものかと意気込む。持っている死語と鞄の横に可愛らしい水色の紙袋が揺れているが知った事か。知らん。知らん........少し、気になる。



「それ」



みっともなく震える指で刺したものに気づいて、あっけからんとした顔のままに「ああ」と呟く妙才様。ぱっと開かれた中には袋と同じくらい可愛らしく、綺麗にラッピングされたそれが「バレンタイン限定チョコですが何か?」と鎮座していた。何と恐ろしい。



「あー、まぁ義理って奴だな、同じ奴が惇兄に渡してた奴見るか? ありゃ本命だ、掻けてもいい」

「そうですか」



二文字。さっきから二文字しかしゃべらない私はなんだ。ロボットでももう少し気の利いた返事ができるだろうに。でも、妙才様は何となく私が安心したのを感じ取ったらしい。「納得したか?」と聞かれて頷いて、ならよかったとにっかり笑った。













衝動で、今だと誰かが私の中で叫んだ。









「み、妙才、様」

「ん? どしたぁ」



ネクタイを緩めながら「そら言ってみろ」と聞く体勢に入って下さる妙才様。ああ、お手伝いしますと伸ばした手にゆっくり乗せられたスーツのジャケットとネクタイを受けとりながら「ええと」だの「あの」だの繰り返す間も、急かさずに待て下さる。おかげで深呼吸をする時間が取れた。それらをハンガーに引っ掛けて、部屋着になって一息ついた妙才様とリビングに戻って、また深呼吸。机の上に載ったそれを両手で持って、妙才様に差し出す。




「バレンタインだから、ケーキ作りました。一応、感謝の気持ちとして.......
その、いつも、こんな、私と一緒にいて下さって、ありがとうございます。言えなかったけど、言わなかったけど、私、ずっと、お礼が言いたくて、本当に、ありがとうございます。
ですから、その、た、食べて、いただけない、でしょうか、」





長い言葉を言い切った瞬間、息苦しさに呼吸が乱れた。いつのまにか息を吸うことを止めていたらしい。
ぽかんとした、妙才様が「うえ、え、は?」と呟いた。その数秒後、ひゅばばばばと音が付きそうなくらいに妙才様の人差指がケーキ箱と妙才様を高速で往復して、真ん丸開いた目が次第に泳いで、見えなくなる。真横どころか後ろを向かんとしているのかと思うほど背けられた顔。



「妙才様?」

「あー、だめだにやけた。
見んなよ、今は絶対だめだ、俺の面見るなよ」

「はい、分かりました」



了解して、差し出したままの手を下げようとする。受け取るまでに時間がかかると言うのなら、差し出し続けるのは急かしているようで嫌だと、下げた瞬間、バッととられた箱。



「いやいやいやいや!! 食うからな! いただきます!!」

「ああ、はい、どうぞ」



真っ赤だ。妙才様の顔。喜んでくださったのだろうか。嬉しいと、思ってくださったのだろうか。


それならいいなと、少しだけ口が緩んだ瞬間一気に引っ張られて、私はいつの間にか妙才様に抱き潰されていた。