魔が差した、という言葉のなんと便利なことだろうか。こんな、全く持って自分らしくない行動にまで、その5文字で説明がついてしまうのだから。


それが陳列されているのを見たのは、輝かしくただ一つの言葉が延々と書かれた、ショッピングモールの一角だった。



「うぃ、ヴィノ、カカオ?」

「あ、こちらですか? これ本当に珍しいものなんですよ! 彼氏さんに是非、如何ですか?」



口から滑るように出た商品名に食いついたお姉さんに、そうですか以上の言葉を出す暇、と言うか、精神的な余裕がなかったのはお姉さんに謝るべきことだったんどろうなと、今でも思う。だけど、だって、こんな余裕のない頭なんて久々だったのだ。




バレンタイン。この、今まであまり関係のなかったイベントに関わるというのは、私にとってほとんど前代未聞のことだった。好きな人より未来のこと、一時の幸せでのちのちしっぺ返しを食らうならと意欲的に色恋沙汰に近づこうとしなかった私が、社会人になって初めて、恋というものに落ちた。本当に落ちた以外の表現が合わないくらいコロンと。

落ちたらもう後はなすがままで、どれだけ抑制しようとしても視線は彼を追うし、私生活のそこらで「あの人なら」なんて意味の無い妄想を頭が勝手にしだす。しっかり出来ない。人が変わったようだと自分でも思う。

手に取って、ラベルを見ている間もふんわり浮かんだ彼の人の顔がチラついて、きちんと締めているはずの財布のひもがするする解けていく思いだった。どうしよう。どうにもならない。気付いたら私の手は、そのワインの瓶と財布を握っていて、足はレジに向かうべく歩を進めていた。
ちょっと待って、買って、渡して、私は何がしたいんだ。そんな考えは足を少しだけまごつかせる位の効果しかなく、「そちらのお客様、そちらお買い求めですか?」という声に呼ばれる様に私はレジに並ぶべく急いで、しまった。




その後店員と一切口を開かずそれを購入し、明らかに似つかわしくないフリフリラッピングが施されたそれを手に、宅飲みした時に覚えた住所へと向かう。手に血まみれの凶器でも持っているかのような、持っている物への違和感が止まらない。殆ど早歩きで向かえば、なんと驚くべきことに、30分はかかる道程が、半分の15分で到着してしまった。



「私は、郭嘉さんに会いたいんだろうか」



この後ろめたいような気持ちを抱えた状態で?



「いやいや」



首を振って、マンションの階段を上がる。ああ、やっぱりだ。一段上がる速度が遅くなった。さっきのはきっと居た堪れなさ故の全力早歩きだったのだ。
扉の前に立って、インターホンを押す。



「郭嘉さん、なまえです。アポイントメントなしでごめんなさい」



返ってくる言葉は、皆無だった。

もしかしたら外出しているのだろうか。これだけ覚悟決めてきたのに? ああ、先に電話すべきだった。空回り、フルスイングのストライク、恥ずかしいまでの大ミスだった。かえって郭嘉さんがいなくて良かったかもしれないと思う。
よし、帰ろう。これは........まぁ、興味もあったし、自分で飲んでしまえ。踵を返して、一歩。



『........なまえ?』




インターホンから自分の名前が零れ出てきた。



郭嘉さんが、いた。





「っ、はい、」

『ああ、すまない、貴女とは思わなくて、今開けるよ』



かすれた声なのはインターホン越しだからだろうか。ドアがガチガチと音を立てるのを聞きながら、姿勢を整える。吹き抜けた風でひょいと視界に飛び出た髪の毛を慌てて元に戻していれば、がちゃんと鉄の扉が開いた。



「こっ、こんばんは、」

「こんばんは、貴女に来てもらえるなんて、とても嬉しいよ、何か用かな?」

「用、と言うか、ちょっとね」



さて、今の私は果たして普通の言葉が話せているだろうか。目の前の、スーツ姿じゃない郭嘉さんに向かい合って、恐らく視線は覚束なくウロウロしているだろうし、手だってどうにも綺麗に、自然に下ろしたままでいられずにもぞもぞ動いている。ゆっくり、紙袋を持ち上げて郭嘉さんに差し出した。



「これね、まぁ、バレンタインという奴で、仕事場にお酒持ってくのもどうかなって思って、持ってきた。」

「ふふ、ありがとう、来月はお礼をしないとね」





「え、あ、いいよ、郭嘉さんにあげたいなって思って、買っただけだから」






流れるような会話の、ほんの一言だと思っていた。少なくとも、目の前で郭嘉さんの綺麗な茶色の目が大きく開くまでは。



「ーーーーーーっ、う」








私の手を、郭嘉さんの冷たい手が掴んで引き寄せた。






よろけて動いた足が、郭嘉さんの足の横に並ぶ。背中に回された腕が腰に回って、無意識でのけぞったままの体のせいで、見てしまった。



こんな平和極まりないご時世に、こんなぎらついた目なんて初めて見た。



「もう少し、このままの関係でいたかったのだけどね、貴女がこんなに可愛いから」

「う、うぇ、あ、」

「さて、こうなってしまってはもう、仲良しのお友達の振りはできないけれど、かまわないね」



有無を言わせずに、するりと離れた体を引かれて招かれるのは明らかに郭嘉さんの部屋の中だ。「待って」とうやうや動く口で何とか紡ごうとするけれど、それでも押し切られるように引っ張られて、たたんとたたらを踏んだ。



「私はもう、手を緩めるなんてことはしないよ、覚悟はできてるかな?」



後ろで鉄の扉が、バタンと外の明かりを完全に遮断した。