「何時だって酒は美味しいけどね、満月の酒が特にだね、盃に月を映してから飲むなんてさ、最高じゃないかね」



何時だったか、自分の上司がそう言っていたのを思い出してから、そう言えば今日は満月かと空を見た。
生憎と主であるあの方ほどお酒が好きと言う訳ではないので興味のなかった話だが、空は雲が少々あるくらいの晴天。きっと今日はいい月が見れるだろうと思えば、墨と紙の買い出しからすぐに帰ろうとは思えなくなった。足が向くのは、そう言えば彼の人が好きだと仰っていたなと思い出した店。



数種の酒だけが陳列された、頑固そうなおじさんのいる酒屋を覗いて即断即決で買った辛めのそれと、当てにいいかと適当につまみも買って、ぼちぼち帰ろうと帰路につく。きっとあの人の事だ。どれだけ早く帰ろうと、「何か寄り道でもしたのかい」と聞いてくることだろう。勘なのか、単に考えた末の結論なのかは分からないが。それに何度も「あたりです」と上から目線のような言葉を返すのも、段々面倒になってきた。





タプン。腕の中で抱えたそれが、少しとろみがかった音を立てる。




まぁ、目下の目標は絶対に、これを他の誰か、たとえば張の付くあの方に見つからないようにすることだと、心に決めた。











*    *    *






「ホウ統様、なまえです」

「おや、こんな時間に来るなんて珍しいねぇ、何かあったかい」

「はい、夜分遅くに申し訳ありませんが、失礼してもよろしいでしょうか」



屋敷に帰らずに仕事、と聞いていた今日のご予定に握り拳を作ったのは無礼極まりないが、私にとっては好都合だった。
廊下には青白くも冷たい印象のない、柔らかな月の光が漏れていて、きっとこの人の好きな月だろうと勝手に想像した。招かれて入った先には、数十の書簡や書物が置かれた机に向かって椅子の上で胡坐をかくホウ統様がおられて、珍しく彼の隣にはもう冷たくなったらしい茶が置いてある。「お手伝いいたしますか」「いいよ、どうせあと少しで終わるから」「さようですか」やや、沈黙。そう言えばと切り出して、机の上に今日の収穫物をサッとおく。
「他意はありませんあなたが好きそうだったから買っただけであって決して給料引き上げや待遇の向上のための賄賂と言う訳ではありません」と言うのは、口で表現せずにどう伝えるべきなのだろう。



「今日が満月だったので買ってまいりました。一応つまみもご用意いたしましたので、よろしければ」



袋を手渡せば、傘の下の慧眼が少し見開かれた気がした。少しそっけなかっただろうか。いつもの態度とさして変わらないからそれはないだろう。先ほどの意を示すためにも、ここはさっさと帰ってしまおうか。




「では、失礼いたします」

「え」



頭を下げて去ろうとしたとき、何とも彼らしくない声がして、驚いた。えって、えっておっしゃったか。
顔をあげればああああと顔に手を当てるホウ統様。何か、失言? 失態? ここでただ謝るのは愚策、代替案、もしくは打開策を提示するのが吉。いつもの教えがここで活かせるかどうかだ。


「申し訳ありません、何かありましたか、酒やつまみのネタ被りでしたら後日他の物をご用意いたします」

「いや、そうじゃなくてねぇ、ああ、なんて言おうか」




まぁ、ちっとまってな。と、ホウ統様が立ち上がって椅子の下から出したのは皿と盃が2つ。袖越しに手を引かれて部屋から出て、ふとああやっぱりきれいな月だと思う。青く見えるそれ。綺麗な、丸い。



「ちょいと、歯ぁ食いしばってな」



聞こえた言葉に一瞬殴られるかと思ったが、其れならまず持っている翳扇が飛んでくるだろうとすぐさま却下して、言われた通りにぐっと噛む。ややあって、ホウ統様が翳扇をぶうんと一振り。強風か突風か、いずれにせよ自分の足が掬われるほどの強い風が瞬時に吹いて、とっさに目を閉じた。




「そら、もういいよ」




足元が少々ぐらぐらする感覚のあと、こわごわ瞑っていた目を開ければそこはまさかの、先ほどまでいた部屋の上、屋根の上だった。
「足場は、悪いがね、月見酒ならここが一番の特等席さ」
そう言ってどっかり座る屋根はなるほど、月の光を反射して青く、鈍く光っていた。おかしい、月とはこんなにも明るいものだったろうか。それとも普段私が、今まで月光の強さなんてものを気にしていなかったからだろうか。丸くて、大きなそれ。見惚れてぼんやりしていれば、隣で水が流れる音がした。



「月見酒の話をした時、」

「はい」

「本当は誘ったつもりだったのさ、その日がちょうど満月だったからね」

「、気づかず、申し訳ありません」

「いいさ、こうしてアンタの方から来てくれたんだ、ああいう話もしとくもんだ...........


ほら、アンタも飲みな」

「失礼を.......」



盃になみと注がれているのは私の買った、ホウ統様に差し上げたそれだ。自分で飲むのはどうなのだろう。まぁホウ統様が注いで下さったのだ。受け取った以上喜んでいただくのが筋と言うものだと思い、苦し紛れの気休めに1つまた「失礼を」と呟いて、盃を持ち上げる。おずおずとしたその動作をさらに促す様に、横でホウ統様が自分の分の盃をくいと上に上げるのが見えた。









その水面に、きらりと月が映る。








綺麗だった。さて、この光景を何と言い表そうかと口を間誤付かせるが、良い言葉が出てこない。自分の手の中でも同様に煌めくそれを畏れ多くも口に宛がって、丸呑みするように喉に流す。焼けた油のような熱さが何故か心地いい。



「どうだい」



短く、呟くような声。すうと息が吐けるような、火照るはずの体が暖かく落ち着くような。



「月が、綺麗ですね」




答えに満足してくださったらしい。横で嬉しそうに、覆面をずらして酒を飲むホウ統様が、「そうかい」と呟いた。