目の前に出された小奇麗な箱を持つ手が小さく震えていたのを、珍しく鮮明に、今でも覚えている。




「なぁ、なまえ」

「うあぁあ、はい! 何でしょう!!」

「ここと、ここ、数字間違えてんぞい」



差し出した書類を指さして伝えた指摘に、なまえは固まった後ややあってがたんと立ち上がって勢いよく頭を下げた。周りも慣れきったと言わんばかりにくすくすと笑って、「頑張れなまえー」なんてエールを飛ばしている。おいリナリア、次ぁお前の書類修正の番だよい。


受け取って、わたわたパソコンのキーボードを叩く手は素早い、が、たまにタイプミスをかましてはまた慌てだして、誤字までの文章を全部消してそこからやり直す。矢鱈と時間を喰うやり方で気になっちゃいたが、どうもそこだけを治すのが苦手らしい。数字を何度も確認しながらやり直す姿を一瞥して、目が合ったリナリアのデスクに近づく。なぁにが「げ」だよい

あらかた指摘も終わって、自分の席に戻ってまたなまえを見る。小せぇ飾りのついた髪ゴムで纏めただけの黒髪が、曲がった背中を伝って落ちる。視力が良くないのかたまにカチャカチャ動かす細いフレームの眼鏡の奥であわただしく動く目に、少しだけ周りが笑った気分も分かって、おそらく周りから見てため息にしか聞こえねぇだろう音で笑う。こりゃ応援したくなるわな。





その、何とも慌ただしい動作の塊のようななまえが、面と向かって俺にバレンタインチョコレートを渡してきたあの日から数日が経った。上司にあげる世話チョコ(と言うらしい)にしちゃ随分と頬を赤らめていうもんだから、あれを「おうありがとな」と軽々しく受け取る気になれずに、えらく口ごもった声で受け取ってしまった自分が情けねぇ。中高のガキじゃあるめぇし


家に帰るまで何故か鞄に仕舞う気にもならなかったその箱の中身はウイスキーボンボンで、まぁ季節故かチョコレートで包んであるやつだった。普通の、半ば義務的に渡された世話チョコはただただ甘い菓子のものが多く、その中でのこれはほとんど救いに近かった。まぁチョコレートの甘味はあるものの、それでもウイスキーの苦みがちょうどいいそれ。いつのまにか1つ残らず胃の中に詰め込んでいた。ああ、もう一個ありゃよかったのにと思うくらいの美味さ。ありゃいったいどこで買ったんだか




「し、室長、マルコ室長.......資料、直した奴、できました」

「おう、ん、直ってる」

「すみませんでした、以後、気を付けます」



再び勢いよく下げられて、ゆっくり戻っていくなまえの頭を目だけで追いながら渡された資料をファイルに入れる。あーあー、隠す気がねぇのかよいと突っ込みたくなるほどの赤い顔に、伏せられた目。あの時と寸分狂いのない表情だ。「まぁ気にすんな」と適当極まりない声をかけて、すごすご席に戻るなまえを見送る。席について少し固まって、またパソコンに向かうなまえ。ああもう、んなちらちら見ねぇでも怒ってねぇから、真面目に仕事しろ。




「そんなにちらちら見て、そんなになまえちゃん気になります?」

「仕事増やされてぇかよいリナリア」

「図星です?」

「..........何したか聞いていいかい」

「やだなぁ何もしてませんよう、室の女の子全員の世話チョコ甘いもので統一したことと室長の好きそうなもの教えた事以外は特に、店のセレクトはあの子がしました」

「頭痛薬が欲しい」

「では、こちらの資料の訂正確認お願いします!」



ペイと出されたそれを受け取りながら、唸る。これだから女の集団ってのは怖い。どっから偶然でどっから作為なのかが分からねぇ。まぁ分かったことは未だ自分の席で隠れて、バレないように(バレッバレだが)こっちを見ては首を傾げているなまえが何の企みも姦しい計画も知らないでいるって事だけで、それだけでこぎれーに見えてくるから救いがねぇ。米神を押さえて仕事にとりかかろうと下を向けば、ふと影が落ちる。



「あ、の、大丈夫ですか? リナリアさんから、頭痛薬を探されてるって、聞いたのですが.......

これ、よかったら」



差し出された箱には早く鋭くなんて謳い文句でお馴染みの頭痛薬の名前が書いてあった。純粋な行為にそういう物理的な痛みじゃねぇから要らないとも言えずに礼だけ呟いて受け取って、用法容量に書かれたとおりの数の錠剤をのみ込む。数回ペットボトルの水を飲んで、すっきりした。




「なまえ」

「あ、はいっ」

「勤務表、今度休みなの3日ほど言ってみろい」

「え、あ、えっと、21、と27と、3月の5日、です」

「んじゃ27、予定は」

「特には、ない、です。多分」

「空けとけ」

「出勤ですか?」

「いや、前にもらったボンボンの店、教えてもらおうと思ってんだがねえ、迷惑じゃなけりゃあ、連れてってくれねぇかい」




なまえの顔が一気に赤くなる。そりゃあ、あの日なんて日にならねぇくらいだ。耳まで茹蛸の名前が、「えぁ、う、え、あああ」と母音ばかりのうめき声をあげる中、少しだけ上がった口角を感じながら、口を開く。



「こんなおっさんでよけりゃあ、デートでもシマセンカ」



ああ、ここの窓何で開かねぇんだろうなぁ、今すぐこじ開けて飛び降りてぇ