李カクの娘、なまえは、人形・置物と言っても何ら遜色ないほどの半生を送る美姫であった。
娘の存在を知るものは数少なく、一時、齢4つにして流行病で死んでしまったと噂が流れたことからも、その者らの大半は娘の存在など記憶の片隅にすらなかった。





かく言う賈クも、娘の存在を知ったのは自らの策を李カクに売ってから10日ほどたった後になる。
その出会いは偶然、賈クが屋敷内を歩いていたところ、井戸の中から恐らく人のものであろう声がしたのだ。反響し何を言っているのか一切分からない声は、賈クの興味を、李カクが「何もない」と冷や汗をかきながら言い張ることで余計に掻き立てた。



武器を囲いに引っ掛けて、鎖を伝って降りていく。水の気配はない。耳に切りかかってくるような声の正体がだんだんと分かってきた。



「あ゛あ゛あ゛あ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛あ゛ぁ゛あ゛あ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛あ゛あ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛!!!!!!!!」





特に意味などない、絶叫だった。



獣か、歴戦の猛者か。それに近い咆哮のような声が数段高さを変えて賈クの耳に届いた。がなり立てるような、助けを求めるような雰囲気の漂う声に、一瞬牢獄か拷問部屋かと思ったが独特の匂いがしない。むしろ香でも焚き染めているような、そんな匂いだった。
近づけば近づくほど耳を劈くような絶叫が井戸の中を反響して、出口を見つけきれずに延々と反響し続けている。いい加減耳が可笑しくなりそうだと判断して、腰巾着から握り拳大の石を取り出して下に落下させれば、カツーンと音が響いて叫びは納まった。
ようやく地面に足をつけて辺りを見渡せば、木で作られた壁の隙間、座り込む1つの人影を見つけた。他に生き物の気配はしないことから、どうやら音の発生源はこの娘らしい。




「だれ」




瞬時に、自分の降りた長さと歩いた方角、地上でこの位置がどこに当たるかを考えながら放たれた言葉に耳を貸す。目の前のモゾモゾ動く人影は、ぎりぎり自分を人だと判別つかせるくらいにしか辺りを照らさない灯を掲げた。
人影の周りをくるくる回る玉がぼんやりと光り出す。人影がその玉に触れれば強くなる光。ようやくその人影が人間の娘であることの判別がついた。明らかに火の類ではない明かりは少々気になるが、それよりも格は目の前の娘が誰か、という事に意識が向いていた。罪人の娘、寵姫、考えはいくらでも湧いてくる。





「声がしたんで入ってみたんだが、ここはアンタのお屋敷かな?」

「オヤシキ・・・そうね、ここは私のオヤシキ、何か御用かしら侵入者さん?」



先ほどの絶叫の主とは思えないほど小さな声、少しだけ体を傾けて、耳を澄ませてやっと聞こえるような声だった。「これは失礼」と一応の謝罪とともに近づけば、それはもう、どこぞの宦官の娘もかくやの整った顔立ちをした娘が此方を睨みつけていた。幼い顔にその睨みはあまり似合わない。不似合。まるで眼だけを狼か虎と交換したようだと賈クは思った。













それが、なまえと賈クの出会いであった。











なまえは李カクのお気に入りだった。誰にも触れさせない。姿を見させてなるものかと、父が娘に向ける愛情としては些か行き過ぎた物を向けられていた。知識を制限され、行動を制限され、されど幼き頃からの幽閉にも負けず、なまえは物心ついたころから少しだけ見える空に向かって絶叫する日々を送っていた。屋敷の端の部屋、離れ、そしてこの井戸の奥底にある秘密の隠し部屋と幽閉の度が上がっていってもなまえは叫ぶことを止めず、そして生まれてから14年と少しが経ったこの日に漸く、女官と李カク以外の人間と顔を合わせることができたのだ。





賈クは正直、最初は面倒くさいものに出くわしてしまったという気持ちでいっぱいだった。李カクの虎の子で、14年も幽閉されていて、尚且つ怪しげな術を使うこの娘を、はてさて自分はどう見捨てるべきか。
しかし中々に強かななまえは、髭面で怪しげな雰囲気が漂いまくっていると自分でも思っている賈クに「外のことを教えにこの時間に来い」と言い放った。勘弁してくれ、こっちは危ない橋を渡るつもりはない。それでも「来なければ父にお前がここに来たことをばらす」と脅迫され、賈クの地下通いが始まってしまった。

一体どちらが危険なのかはだれが知ることか。







「はい、ちゃんと捕まってないと落ちて頭からぐしゃってなりますよ」

「こ、怖いこと言わないでよ・・・っ」




鎖を握りしめながら震えるなまえを井戸から引きずり出しながら、賈クは考える。



どうしてこんなにも嵌ってしまったのか。
面倒だと思っていたはずだった。縁の切り方を考えていたはずだったにもかかわらず、自分はどうしてこのようなことをやっているのかと。




「・・・っふう、久々の空・・・月が出ていないのが惜しいわね」

「月なんざ出てたら影でバレますよ それとも姫様はバレるのがお好きで?」

「なわけないでしょ・・・」



いじけて唇を尖らせる娘に先程までのような覇気は見られない。どこからどう見ても普通の娘だ。何も知らないはずの娘が深窓の姫君にはあまりに不釣り合いなあの目を見せるのは、次は一体何時になるだろうかと考えながらなまえを連れて進む。



「怖いんなら止めてもいいんですよ」

「ぜーったい嫌!」



舌を出してキッと睨み付ける目も、アレの非ではない。何時だろう、何時だろう、賈クの心は顔面とは不釣り合いなほどに踊っていた。




「悪人面で悪かったね」

「・・・・賈ク? 何1人で喋ってるの」

「いえいえ、さて、いざ参らん外の世界へ!」


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