あなたのためなら頑張るよ

「何か最近変だよ、姫子。」

顔を覗き込まれた稲葉は、ハッとして目の前の友人に目を移した。部員メンバーとは別で、長い付き合いである天草詩織は、そんな稲葉を見て眉を寄せた。
心配させてしまったようだ。と稲葉は自分の身を引き締めるため、俯きがちだった体勢を正した。教室の片隅で机を向かい合わせにして食べている弁当は、今日は、否、最近は一向に減っていかなかった。

「何かあった?私には言えないこと?」

「あぁ、ちょっとな……」

曖昧に言葉を濁せば、詩織の眉間のシワはますます深まった。
稲葉がこうなってしまった理由は、言わずもがな、人格入れ替わりのせいだ。まだ詩織の目の前でそれが起こっていないからいいものの、それも時間の問題だろう。そうなった場合、自分と入れ替わった誰かが、うまく詩織を誤魔化せるだろうか。恐らく、無理だろう。
また、稲葉の心配はそれだけではなかった。他の誰かが自分になっているとき、何か悪いことをしでかさないか、不安なのだ。無論、稲葉は部員たちのことを信用している。だが、だからこそ、もし裏切られた時の心の傷は、深く、酷いものになるのだろう。信用している、などと言いながら、信じ切れていない自分に腹が立つ。
ふっと溜め息をつけば、また考え込んでしまっていたのだろう、詩織の箸も止まっていた。

「大丈夫だ。たいしたことじゃない。お前に相談するほどのことじゃないから、安心しろ。」

「……そんなこと言って、姫子が大丈夫だったときなんかほんの少ししかないよ。」

「今回はそのほんの少しなんだよ。いいから、お前は心配するな。」

「……」

不服そうにウインナーをちびりとかじった詩織に、稲葉は苦笑して詩織の頭に手を伸ばした。稲葉は、そこを撫で回した時の詩織の表情がすきだった。きつく目を瞑り、かたく閉じられた唇。小柄であることも交えて、まるで一種の小動物のようだ。
今回もうりうりと撫で回すと、詩織はいつもの表情で「うぅっ」と唸った。

人格が入れ替わるという奇妙な事件に巻きもまれてもなお、稲葉が詩織と昼食を共にするのには理由があった。詩織と稲葉は所謂幼馴染だ。姉御肌の稲葉と常に一緒に過ごし、家でも3人兄弟の末っ子で、可愛がられて育ってきた詩織は、まったくの人見知りになってしまっていた。それは今でも健在で、見た目すらも未だ中学生、下手をすれば小学生に間違われてしまうほど子供っぽい。
そのせいで、友人が出来ないのだ。幸か不幸か稲葉と同じクラスになった詩織は、高校で新しい友達をつくろうともせず、稲葉にくっついている。さすがにこれではまずいだろうと、部活だけは稲葉と別にさせたが、ものの30分で泣きついてくる始末だ。その結果、今に至る。ほうっておくと1人きりになってしまう詩織を、稲葉は見ていられなかった。

「私考えたんだけどね、」

そして、詩織が話しかけてくるのも、決まって稲葉が1人きりの時だ。太一や伊織ですら怖がる詩織は、恐ろしいほど絶妙なタイミングで稲葉のもとにやってくる。今日も今日とて、そうしてやってきた詩織に、稲葉は溜め息を飲み込んだ。

「何だ?」

「姫子、部活でなにかあったんじゃない?」

その核心を突いた問いに、稲葉は思わず軽く目を見開いた。たまにこういうのがあるから怖い。と稲葉は思う。詩織と親しいものの中では、これを「子供の勘」と呼ばれているのを、詩織は知らない。まさしくそれだろうと、稲葉も納得するネーミングセンスだ。つけたのは詩織の兄だったか。

「部活のやつらとは仲良くしてる。詩織、お前もわかってるだろ。」

「わかってるよ。だからその、人間関係とかじゃなくて、何か他の部分で……」

「……」

今日はえらく子供の勘が働いているようだ。稲葉は咄嗟の言い訳を思いつくことが出来ず、目を逸らした。その行動がまずいとはわかってはいるものの、してしまってから気づいてももう遅い。「やっぱり……」と呟いた詩織は一体なにをしようというのか。その心配をよそに、詩織は胸の前で拳を握り締め、高らかに宣言した。

「今日、文化研究部に行きますっ」




「と、いうことで、着いてきてしまったんだが……。」

「姫子を助けたいんだもん!」などという事を言って、意気揚々と着いてきた詩織だったが、部室が近づくにつれ、その足取りは重たくなっていった。部室の前まで来ると、稲葉の後ろから出てこなくなる始末だ。予想はしていたが、どうにかならないものだろうか、この性格は。と稲葉は溜め息をついた。
詩織が自らそんなことを言うのは初めてだった。見ず知らずの人が多数いるところに行く。それは詩織にとっては命をかけた戦いのように恐ろしいことだろう。だからこそ、稲葉はその申し出を突っぱねることができなかった。
かく言う詩織は、稲葉の後ろで小刻みに震えている。きつく掴まれたブレザーから伝わるその振動は、恐らく恐怖から来るものだろう。

「稲葉っちゃん、その子誰?」

「アタシの幼馴染だ。
ほら詩織、挨拶くらいしろ。お前が言い出したんだろ。」

青木の問いに、稲葉は簡潔に答えた。続きを詩織に促すためだ。稲葉の言葉に、そっと顔を出した詩織は、自分を見つめる8つの目に肩を震わせた。「あぅ、あ、あぁ……」といくつかの母音を発した後、蚊の鳴くような声で「天草詩織です。」と早口に言うと、再び稲葉の後ろに身を隠してしまった。

「見てのとおり酷い人見知りだ。」

「同じクラスの私と太一にもまったく慣れてくれないんだよねー。」

ねー。と伊織に顔を覗き込まれ、詩織は「ひぃっ!?」と悲鳴を上げた。その反応に、伊織は青木たちに肩をすくめて見せる。

「それで、天草は何で文化研究部なんかに?入部希望?」

「そんなわけあるか。こんな部に詩織は入れさせない。」

「2人ともこの部に何か恨みでもあるの?」

軽く文化研究部を侮辱した太一と稲葉は、だが自分たちは無意識のうちに言っていたのだろう。唯のツッコミに首をかしげた。詩織はというと、太一の問いに答えようと必死になっていた。えさを欲しがる金魚のようにパクパクと口を動かし、声を出そうと声帯を震わせる。「ぁあのっ!」と妙に上ずった声を上げた詩織に、1番驚いた様子を見せたのは稲葉だった。詩織が人前で自ら喋った。それがいかに珍しいことか、全生徒の前で演説をしてやりたい気分だ。いや、そんなことは機会があってもしないが。

「ぁ、あの……ひ、めこが、最近変なんです……。そ、それで、部活に何かあるんじゃないかって……ぁ、ぅ、わたしっ、姫子を助けたくて、っあの……」

涙目になりながらも必死に喋る詩織に、稲葉は手を頭に乗せようと動かした。その時だ。突然視界が変わり、目の前に詩織が現れた。手を挙げていたのは伊織である。まさか、と思い視線を上げると、ポカンとした自分が立っていた。そして、妙な苦笑を浮べる太一。どうやらこのタイミングで入れ替わりがおきてしまったようだ。
恐らく、太一の中に伊織、稲葉の中に太一、そして、伊織の中に稲葉がいる状態だろう。頼む、太一。うまくやってくれっ!いや、もういっそこのまま動くな!稲葉は祈るような思いで太一が中にいる自分を見つめた。ぎこちなさげに動こうとする太一を睨みつけて止める。詩織は、一世一代のトークに、半ば放心状態だ。このまま何もしなければバレずにすむはず。
唯と青木も今の状態に気づいたのだろう。視線を交わらせ、小さく頷いた。

「大丈夫だよ!稲葉っちゃんに何かあったら俺たちが守るから!」

「そうそう。こう見えても、空手チャンピオンなのよ、私。」

2人の必死のフォローに、詩織は何故かより一層稲葉にしがみついた。それゆえに、慣れない感触を背中に感じた稲葉の中の太一は、無意識のうちに身を硬くする。詩織を安心させて、この部屋から出て行ってもらおうという作戦は、より事態を悪化させたようだ。稲葉のおかしな反応に、詩織が怪訝そうに稲葉を見上げたのだ。

「あ、えーと、見て見て詩織ちゃん!これ稲葉んの秘蔵映像!」

「あっ、あー!何それあたしもまだ見てない!み、見たいなー!」

咄嗟の太一の中の伊織のフォローに、伊織の中の稲葉は仕方なく乗った。それに青木と唯も協力し、何とか偽装DVDに意識を行かせようとするのだが、詩織はそれを見ようともしない。妙な笑顔のまま固まっている自分の幼馴染のはずの稲葉を、探るように、じっと見つめている。
5人は焦った。ヤバイ。まずい。そればかりが頭の中を支配し、いい逃げ道を見つけられない。そして、詩織がポツリと呟いた。

「姫子、じゃ……ない?」

5人の目の前が真っ暗になった。
ばれてしまった、のか?否、まだ相手は疑問系だ。なんとか誤魔化す方法を……!焦りで固まる身体や脳を必死に動かすが、詩織の気を逸らすことは出来ない。万事休す。5人がもう諦めるしかないと腹をくくったその時、奇跡が起きた。身体が元に戻ったのだ。稲葉はすぐに詩織に向き合い、頭をわしわしと撫でた。冷や汗が背中を伝うのを感じながら、稲葉はなんとか笑顔を作る。不安そうに自分を見上げる詩織を、今ならまだ誤魔化しとおせるはずだ。

「そんなことあるはずないだろ。アタシはアタシだ。」

「……」

詩織の視線を真っ向に受けながら、稲葉はその沈黙が酷く苦痛だった。後ろにいる太一たちも、もう要らないことを言うまいと硬く口を閉ざしている。
思案するように俯いた詩織を稲葉は無意識のうちに息を止めて見つめた。
すると突然、がしりと頭に乗せていた手を掴まれる。その手のひらをじっと見つめ、そしてまた稲葉を見つめ、また俯く。一体何がしたいんだコイツは。こっちは恐怖で押しつぶされそうだというのに。そんな稲葉たちの気持ちは露知らず。大きく息を吸った詩織は、勢いよく稲葉に抱きついた。詩織が抱きついてくることはよくあることで。いつものように腕を背中に回すと、詩織はやっと笑顔を見せた。

「よかったぁ……。姫子だ。」

ぶはぁー。と5人から息が吐き出される。きょとんとする詩織に、稲葉はなんでもない。と伝えた。とりあえず思うことは一つだ。
恐るべし、子供の勘。




「気はすんだか?」

「うん。皆いい人そうで安心した。」

「そうか。それじゃあもう少し慣れてやってもいいんじゃないか?」

「それとこれとは別。」

帰り道。稲葉の問いに、詩織は嬉しそうに答えた。どうやら満足したようだ。これでもうあんな怖い目にはあわない……こともないな。稲葉は隣を歩く詩織を見て、苦笑した。これから先、詩織と行動を共にしないという選択肢は恐らくないのだろう。だったら、今日のようなことは避けられないはずだ。
稲葉は、詩織が自分のためにあんなに頑張ってくれるとは思ってもいなかった。自ら初対面の人の元へ行き、話し、ましてや外見は自分に違いないものを見て、稲葉ではないと言い放ったのだ。
中学生の時、クラス初めの自己紹介が恥ずかしくて、泣きながら隣のクラスの自分のところまで来た詩織が酷く懐かしい。

「あっ、トンボ!」

「あ、おい!」

否、結構最近に思えてきたぞ。トンボを見つけ、一目散に駆け出した詩織に、稲葉は溜め息をついた。やっぱりコイツはまだまだ子供だ。

「姫子ー!今日お母さんがご飯一緒にどう?ってー!」

「あぁ、頼むって言っといてくれ!」

「はーい!わぁっ!?」

「!、バカ!後ろ向きで歩いてるからだろ!」

携帯を振りかざし、勢いよく転んだ詩織に、稲葉は駆け寄った。
詩織が稲葉に依存してしまっているのはよくわかる。だが、稲葉自信も、詩織に十分依存してしまっていることに気づきつつあった。
これから先、この2人が離れることは恐らくないのだろう。



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