※死ネタ表現有り※



時が止まった。そんな表現が正しかった。動き続ける世界の中で彼だけが、神にも等しい時の支配に背いているようだった。

笹塚衛士が彼を見つけたのは偶然だった。定期的に訪れるようになってしまった探偵事務所。鉄の扉を開けて中に入ると、正面にある漆黒の机に、彼…脳噛ネウロが座っていた。いつもなら即座に席を立ち、よくいらっしゃいました、と少々わざとらしい笑顔で出迎えられるのだが。生憎、彼は今夢の中へと旅立っているようだ。翡翠を思わせる瞳は瞼に覆い隠され、腹の前で手を組む形で眠っている。辺りを見渡すが、誰もいない。弥子はまだ来ていないようだ。

―出直すか…

そう思い身体を反転させかけたが、踏み留まった。

―彼を起こさなくていいのだろうか。

笹塚が帰れば、ネウロはまた1人部屋に残される。客が来たら、その人が彼を起こすかもしれない。しかし、自分のように声を掛けず立ち去ろうとする者もいるだろう。泥棒が入らないとも限らないし、これでは無用心だ。
笹塚はしばし悩んだ末、ドアとは反対方向の窓際へと歩を進めた。お節介かもしれないが、このまま帰ってはその後の様子が気になってしまうし、彼に何かあったら何故起こさなかったのかと後悔する羽目になるかもしれない。自分が帰った後、また寝てしまうのならそれで構わない。せめて一度くらい起こしておいた方が、事務所のためになるだろう。
歩を重ねるにつれ、笹塚の瞳に映るネウロの姿がだんだんと鮮明になってくる。陽光がネウロの髪に反射する。彼の周囲には金や緑の光が霧散していて、キラキラと輝くそれに眼を細める。人形のように洗練された寝顔と相間って、その光景はとても神秘的だった。
綺麗だな、なんて、同性に対してはあまり似つかわしくない感想を抱きつつ、笹塚はネウロに近付いていく。途端足元で、くしゃりと、紙クズを踏んだような音がした。書類でも落ちていたのだろうか。不思議に思い、踏み出しかけていた右足を後退させる。
床には、小さな植物が生えていた。己の足に踏まれて蕾や茎がひしゃげ、地面に倒れ伏している。しかし、植物は以前からその生命活動を終えていたようだった。植物は全体が褐色に変化し、体のあちこちに穴を空けている。隙間風にさえ葉を揺らし、パラパラと欠けていくのだ。自分が踏み付けなくても、風化してしまうのは時間の問題だっただろう。
何故こんな場所に植物が生えているのか。疑問に思ったが、今時アスファルトを持ち上げて成長する植物もあるのだから珍しくないと、笹塚は早々に結論付けた。しかし、またすぐに新たな疑問が湧く。今度は、疑問というよりも恐怖感だとか不信感と言った方が正確かもしれない。
また、芽を見つけた。黄味掛かって、まだ顔を覗かせたばかりだと思われる、小さな双葉だ。しかし、それが生えている場所は、床でも壁でもない。
芽は、ネウロの手首から顔を覗かせていた。
肌の露出が極端に少ないネウロ。そんな彼の、黒い皮手袋と青いジャケットの隙間から僅かに見える、白い肌。ぱっと見では見つけられないほど小さな双葉が、そこにはあった。それは、ネウロの背後の夕日に向かって葉を広げているようだった。服から芽が生えたのだろうか。むしろそう考えた方が、まだ自然であろう。しかしそれは、見れば見るほどネウロの肌に根付いているようで。
喉が渇いてきた。心臓が早鐘を打つ。何故かひどく緊張していた。自分の目に映るもの全てが嘘偽りで出来ているような気がした。

―これは『何』だ?

植物のことではない。今自分の目の前で眠っているように見える麗人。彼は本当に眠っているのだろうか?胸の上下運動はない。口は僅かに開けられているものの、呼吸をしているようには見えない。血の巡りを感じられない肌に、瞼に隠れた動かない眼球。
まるで死体のようだ。だが、違う。
笹塚は頭に浮かんだ考えを早々に打ち消した。仕事柄、人間の死体は見慣れている。生命活動を止めた、あるいは無理矢理止めさせられた人間達。言葉を発することなどとうにできないのに、何かを必死に訴えているような、それでいて無に近い存在。アンバランスなそれに、何度背筋を凍らせたかわからない。
ネウロに感じた恐怖は、人間の死体に感じたものとは異なっていた。彼が『何』なのか、全く見当がつかないのだ。
ネウロが人間ではないことは知っている。しかし、以前の彼は生命活動を続ける『生き物』であったはずだ。目の前の彼はそれですらない。
掌に、じわりと汗が滲み出す。笹塚はそれを上着で拭い、そっとネウロの頬に片手を伸ばした。
触れてみよう。そう思った。
赤ん坊が、口を使って物を判別しようとするように。触れてみれば、彼が今どんな状態に陥っているのか、わかるかもしれない。そろそろと、骨張った指が空中を這う。渇いた喉から、彼の名前を絞り出す。

「ネウ、ロ?」

白い肌がほんの数ミリ先にまで迫った。
その瞬間、

「触らないで!!」

悲鳴地味た叫びが部屋中に轟いた。その迫力に、笹塚の肩が大きく跳ねる。勢いよく振り返ると、部屋の出入口に佇む少女が、肩で荒い息を繰り返していた。弥子だ。彼女の表情は、まるで恐ろしいものを見たと言わんばかりに強張っていた。あまりの必死な形相に、笹塚も目を見張る。
2人の間に沈黙が落ちた。やがて弥子は自身の異様な状態に気付いたようで、ハッと息を詰めた。気分を落ち着かせているのだろう、弥子は自身の胸に手を当てる。暫くして、

「…ネウロに、触らないでください」
「笹塚さん」
「今日のところは、帰ってください」

一言一句、はっきりとした口調で告げられる。拒否権など与えないと言いた気に。反論などせず、笹塚は弥子が佇むドアへと向かった。弥子がネウロについて何か知っていることは明白だが、ここでネウロについて尋ねたところで、彼女は何も教えてくれないだろう。そう確信したからだ。
弥子の隣を通り過ぎる。と、

「近日中に、ご連絡しますから」

その約束は確実に果たされると悟る。笹塚は無言で頷くと、夕日を浴びながら探偵事務所を後にした。
弥子からメールがきたのは、その2日後のことだった。


数ヶ月後、笹塚は弥子が学校から帰る時間を見計らい、度々事務所を訪れるようになっていた。静かに部屋へと入っていけば、弥子も黙ってコーヒーをいれてくれる。お互いに会話はない。ネウロが座る椅子とは反対側のソファに腰掛け、コーヒーを啜りながらネウロを鑑賞する。気付くと、弥子も隣に座っている。
ネウロは眠っているのだと、弥子は言った。
笹塚がネウロに触れようとしたあの日より数週間前に、彼は生命活動を終えたらしい。もう、瞳が開くことも、呼吸をすることもない。そんなネウロを死んだと表現しないのは、彼が綺麗なままだからだ。
腐敗しないネウロの身体。全く動くことのないネウロの周りには美しい花が咲き、やがて枯れる。まるで彼の代わりに散ってやると言わんばかりに。その現象は幾度となく繰り返され、笹塚達を魅了した。床や壁、ネウロ自身から生えた植物は、ネウロを1つの芸術作品のように飾り立てた。
死体のような、しかし死体とは言い難いネウロを、2人は飽くこともなく鑑賞する。今の笹塚には、弥子が彼に触るなと悲鳴を上げた理由がわかった。他人が少しでも触れたら汚れてしまいそうなほど、今のネウロは神聖なものだと思う。
笹塚は、ある日弥子がぽつりと零した言葉を思い出した。

「笹塚さん」

彼女の視線はネウロに注がれたまま。

「私は犯罪者ですか」

周囲に知らせることも、土に還すこともせず、彼をこの空間に閉じ込めておく行為が。弥子に彼を埋葬することなど不可能だろう。生前の彼にも、死後の彼にも、彼女は魅了されてしまっている。
普通なら、刑事である笹塚が彼を土の中で眠らせてやろうと諭すべきだ。だが。

「…もしそうなら、俺は共犯者だな」

そんなことはできないと、笹塚はとうに悟っていた。
笹塚の言葉に、弥子はそうですか、と言って笑った。それは、子供のように無邪気でも、大人のように計算された笑みでもなく。この場にあることが当然のような、あまりにも自然な笑みだった。

この鑑賞がいつまで続くのかわからない。ネウロは枯れてしまうのか、未来永劫花を咲かせ続けるのか。結末は誰にもわからない。わかっているのは、2人の人間が人非ざるものの虜になってしまったということだけだった。

ネウロを愛した青年と少女は、今日も静かに彼を見つめている。



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