隣でギラギラと殺気を放ちながら飛び回っている神威くんを見て、そして血の匂い漂う戦場の空気をもう一度吸って、振り回していた傘を放り投げた。

「…もう無理」

泥と血でぐちゃぐちゃと音をたてる地面が本当に気持ち悪い。しゃがみ込んで目を閉じた。それでも鼻は血の匂いを敏感に捉え、耳は次々と殺されていく命の断末魔を一つ残らず拾い上げる。汚れた手をマントに擦りつけて、顔に跳ねた泥を拭って、それでも取れない汚い何かがわたしに纏わりついているよう。

「なまえ?」

鼓膜を震わした爽やかな声、ただそれだけが妙に綺麗なもののような気がしてゆっくり目を開けて見上げれば、桃色の三つ編みと血でぐちゃぐちゃに汚れた見慣れた神威くんの顔がいつになく心配そうに歪んでいた。戦場では我を忘れて暴れまくってる神威くんなのにわたしの変化に気づくなんていったいどうしたの?なんて可愛くないセリフを吐く前に酷い嘔吐感に眩暈まで襲ってきて…

「…帰るよなまえ」

ふわりと身体が浮いたかと思えば神威くんはわたしを抱きかかえてぴょんぴょんと戦場を飛び抜けて行った。



ふわり、ふわり





神威くんに抱っこされながら見る戦場はいつもより少しだけ早めに後方に流れていく。けれど爽快感などなくやっぱり気持ち悪くて目を閉じた。嘔吐感と眩暈に加え頭痛までしてきた。これが幾多の戦場を駆け抜けてきた夜兎の姿だろうか?いや、…違うか。
昔からそんな前兆はあったのだと思う。分かっていたのに気づかないふりをしていたのか、それともまさかそんなことはないだろうと高をくくっていたのか、わたしは夜兎族と地球人のハーフで、だからつまり、

「…もう戦えない」

はみ出しそうな涙を必死に引っ込めて呟いた言葉は思いのほか小さかった。それなのに、

「ふーん」

神威くんはどうでもよさそうにただそれだけの言葉をわたしに浴びせる。やっぱり涙がはみ出してしまった。すでにだいぶ薄れてしまったわたしの鮮やかな赤色は無常にもさらに色を薄めていく。今ではパステルカラーがふわふわと周りを漂っていた。ふわふわぽわぽわとわたしに纏わりつくパステルカラーはわたしをどんどんと弱くしていき、でも、神威くんの赤は濃くなりすぎてすでに黒さを見せ始めている。いったいどうして神威くんとわたしの色はこんなに違ってしまったのだろう。小さい頃からずっと一緒だったのにね。

「…っ」
「なに泣いてんの?」
「…ぅうっ、」
「もー、しょうがないなぁ」

ぐんっと重力が強くなったかと思ったら、すぐにふわりと眩しくなって、

「なまえ、目開けてごらん」
「…」

恐る恐る開けた瞳にはスッキリ晴れ渡る青がいっぱいに映り込んだ。そして眩しい太陽の光が優しく降り注ぐ。そしてはるか下の方に赤黒く染まる大地があった。神威くんの差す傘の端から、太陽の光が差し込んでわたしの腕をぽかぽかと温める。
神威くんを見ればニコリと微笑まれるけれど、わたしはその笑顔が何故か悲しくて俯いてしまった。

「ほら、泣かないの」
「…っ」

そういう優しい言葉は時に残酷にも涙を誘ったりするものである。けれどもわたしのあやし方を知っている神威くんは平然とやってのけるから困るのだ。本気で泣くぞ。傘に手を塞がれていなかったら、きっと頭をぽんぽんされていただろう。ぐすんと鼻を鳴らしたら神威くんは優しく目を細めて、それからいつものニコニコとした顔で下を見下ろす。そしてふわりふわりと上昇していたわたしたちは空高く眩しい空間で一瞬だけ静止して、少しずつ下降を始めた。

「はい目閉じて」

言われた通りに目を閉じれば、すぐにぐじゃりと地面に着地する音と振動があって、あの気持ち悪い匂いと音に再び塗れた。けれど先ほど見た青と優しい笑顔を瞼の裏に描いて誤魔化す誤魔化す。

「あとちょっとだからね」
「…うんっ」

闘いが好きだった、強い人が好きだった、飛び散る赤が大好きだった。そして太陽が嫌いだったわたし。それなのにいつしか、太陽の光を浴びてもぽかぽかと気持ち良いだけの自分。神威くんが大好きで、神威くんの戦う姿が好きで、一緒に戦いたくて頑張ってきたわたしはパステルカラーに浸食され、いまや頭は太陽とお花に囲まれて過ごす甘ったるく生ぬるい夢で満たされていた。そしてとうとう浸食はピークに達したのだろう。

「なまえ」
「…なに?」
「…無理することないんだよ」
「…」
「なまえは夜兎だけど、地球人でもあるんだからね」





悲しみが、ひらり、ひらり





わたし、ついに地球人になっちゃったのかなぁ…。
太陽とお花と緑の草原と優しい時間…飲みかけの紅茶やカラフルな待ち針が綺麗な裁縫道具、そしてやりかけの縫物。洗濯物の爽やかな香りやお掃除した後のツルツルな床。世の中こんなに素敵なモノで溢れているのに、わたしにとって素敵だったのは真っ赤な戦場で、でも今は身体が受け付けてくれないの。何故?地球人って、いつもこんなに穏やかなのかしら…?

戦場へは、行かなくなった。
神威くんが、わたしに会うときは必ずお風呂で血を洗い流すようになった。
わたしは、傘をささなくても平気になった。太陽に照らされても肌は痛みを伴うことはない。太陽を見上げても眩しいと目を細めれば、それで終わり。ああ、世界はこんなにも心地よい。
涙が一粒だけ落ちた。





ふわり、ふわり





「ねぇ、あんたさ、いつまで春雨にいるつもりなの?」

第七師団にとって貴重な女の子という種族の団員さんはわたしに冷たい目を向けた。

「戦場には行かない、任務もろくにこなさない、なんでクビになんないの?」

女の子の嫉妬は恐いのだ。

「どうせ、団長に色目使ってんでしょ」

神威くんがモテモテなのは昔から知っていたし、神威くんがいろんな女の子を相手にしていることも知っていた。だけどわたしと神威くんはそういう関係になったことはない。それなのにわたしたちの関係というのはいろんな所でいろんな噂となって流れていたりするのも事実で、

「うざったいんだよね」

そんな言葉を浴びせられるのは初めてじゃないけど、最近数が増えてきているなぁ。彼女たちの言う通り、最近は第七師団のお仕事には手をつけず、それでも何のお咎めも無いのは神威くんのおかげで、だから何も言い返す資格はないのだ。そして、夜兎並みの怪力は今も持ち合わせているけれど、肝心のわたしの戦闘欲というのが今や皆無に等しい。今まで数々の戦場を神威くんと共にしてきたのに、あの頃の自分が信じられない。

「早く春雨辞めてくんない?」
「…わたし、別に神威くんの彼女とかじゃないから安心していいよ?」
「…っ!!そ、そんなこと言ってんじゃないわよ!!」

右頬に鋭い痛みが走った。




ふわり、ふわり





「どうして何も抵抗しなかったんだい?」

神威くんはわたしの真っ赤になったほっぺたに冷たい湿布を貼りながら困ったように微笑んでいる。ふわりと石鹸の匂いが鼻をかすめた。

「神威くん」
「なんだいなまえ」
「わたし、春雨降りようかな…?」
「…」

貼ってもらった湿布を押さえたら何だか温かい気がした。神威くんはうーんと唸りながら何かを考えている。…やっぱちゃんと辞表書かないといけないかな…?手続きとか面倒だったら嫌だなぁ…。
消えてしまったわたしの中のどす黒い赤は、どんなに目を凝らしてももう見つけることはできない。あんなに毛嫌いしていた地球人の気持ちが今すごくよく分かる。わたし、もう神威くんと同じ道を歩んでいくのは無理なんだなぁと目を伏せた。

「別に春雨を降りる必要はないと思うな」
「…?」

けれど神威くんはニコニコと嘘ばっかりを塗り固めた笑顔で言った。そんな顔で言われても全く説得力がないんだけど…

「…でも、わたしもう戦場出たくないし…任務も上手くできる自信ない」
「うん、いいんじゃない?」
「…」

良くないよ神威くん。仮にも春雨の団長なんだからその辺りはきちんと考えた方がいいよ?どう切り返そうか悩んでいたら神威くんが先に口を開いた。

「俺さ、あれから少し考えたんだけど、」
「うん」
「別になまえは強くなくてもいいんじゃないかって結論に至ったんだよね」

どういう経緯で?

「神威くん、弱いの嫌いなのに珍しいね…」
「んー…まぁね」
「…でもさ、働かないのにここのご飯食べさせてもらうわけにはいかないでしょ?」
「別にいいんじゃない?」

神威くんがそう微笑んだ瞬間、綺麗な桜色がふわりと舞い散った。あ、神威くんのパステルカラーだ。

「じゃあ逆に訊くけどさ、なまえはどうしたいの?」
「ん?…だから春雨降りようかなって」
「それは体裁を気にしてのことでしょ?本当はどうしたいと思ってる?」
「…本当はまだ神威くんと一緒に戦場行きたい…けど、戦場に行きたくないの」
「うん、つまり?」
「つまり?」
「うん、だからね」

神威くんと一緒に戦場行きたいっていう願望と、戦場に行きたくないという切なる願い。この二つのお願いは共存できるもんじゃないでしょ?

だから、どういうことなの?



ふわり、ふわり

疑問が、ころん、ころん





「たぶんさ、なまえがこれ以上強くなったら、俺殺したくなってたと思うから…これでいいんだと思うよ」
「…神威くんと殺し合いか……それも良かったかもしれないね」
「本気で言ってる?」
「…きっとあの頃のわたしなら喜んで殺し合ってただろうね」
「そう」

ふわふわとわたしに纏わりつくパステルカラーが嬉しそうに揺れている。

「…一緒に戦場に行けなくてもいいのか…な」

神威くんは、弱くても傍にいていいって言ってくれたけど、わたし、弱くなってまで神威くんの傍にいたいんだろうか?

「…戦場、…本当に行かないよ?」
「いいよ、なまえはお留守番していれば」
「…」

わたしが黙りこむと、神威くんは不思議そうにわたしを見て首を傾げた。

「…なまえはやっぱりここにいたくないのかい?」
「ううん、そういうわけじゃないけど、…神威くん弱いの嫌いなのにどうしてそんなこと許してくれるのかなぁと思って」

わたしの見てきた神威くんは、強いのが大好きで自身も強くて、戦場を駆け回る姿がカッコ良くて第七師団の団長で、

「さぁ、それは俺にもよく分かんないけど…あのさなまえ」
「なに?」
「なまえはさっきから春雨のこととか、強さのこととかすごく気にしてるみたいだけど、ただ一緒にいた方が楽しいからっていうのは理由にならないのかな?」
「ん?」
「今までだってずっと一緒にいたんだし、別にこれからだって一緒にいてもいいじゃない」

それはとても明快で単純な理由。わたしは単純すぎた答えに少しだけ遅れを取った。神威くんはぽかんとするわたしを面白そうに見つめて、

「うん、やっぱり地球人みたいに軟弱になっても、なまえがいなくなるのは嫌な気がするよ」

そう言う。
その時の笑顔がとても優しくてわたしは何だか泣きたくなった。
そっか、神威くんはここの団長である前にわたしの大好きなお友達だったっけね。神威くんに纏わりつくどす黒い赤がふわふわとパステルな桜色に姿を変えていく。もしかしたら、これからどんどん神威くんの赤はわたしには見えなくなっていくのかもしれない。それで神威くんの綺麗なパステルばかり見えてくるのかな…。それは少し寂しくあり、けれど、

「じゃあ、今度可愛い子紹介してあげるよ」
「はぁ?…どうやったらそのセリフ出てくるのかよく分からないんだけど」
「春雨のお仕事のお手伝いはもうできないからさ、他のことでお仕事しようと思って」
「別に今そっちで困ってないんだけど」
「…そっか、神威くんモテモテだしね。じゃあさ、もし本気で好きって思う女の子できたらわたしに言ってね。上手くいくように手配してあげるから」
「何で話が女関係にしかいかないの?なまえもっと他にできることあると思うよ?」
「お掃除とか?…お料理?」
「掃除はお前へったくそじゃん。料理とかしたことあんの?」
「し、失礼な!!」

ここでできること、今のわたしにできること、少しずつ見つける努力してみようと思う。

「いいんだよなまえは。ただ俺の理解者でいてくれればそれで」
「…分かった」

パステルの世界を歩きだしたわたし。もう夜兎ではないけど、それでも、

「神威くん」
「なんだい?」
「ありがとう」
「どういたしまして」

ぐしゃぐしゃと頭を撫でられた。

桜色、ふわり、ふわり





20110416
友達以上恋人未満な二人
相互 せいさんへ^^