黒猫と革紐。 | ナノ


少年のセカイ。


出血が止まり、ガーゼを当てられて包帯を巻かれた手首をちらりと見る。続いて視線を上へ戻すと黒髪の少年の心配そうな表情が見えた。

「ま、そんなに痛くはないですし心配しなくて結構」

「……でも…」

俯いた少年の髪は緩く波打ったままゆらゆらと揺れていて、言いたい事が伝えられなくて不機嫌な猫の尻尾のようだった。たぶんこの性格は一生治らないのだろうなと少し不安な未来予想図を描いていると彼はおずおずと口を開く。


「あの……やっぱり今からでも、ボク…」

「出ていきたい?」


その先に続く言葉など一つしかなく、彼が言うよりも先にその台詞を引き取った。
鉄分より糖分と銜えたキャンディの棒を上下させながらふーんと頷くと、慌てたように少年が付け加える。

「血をもらえることは嬉しいんです。そうしないとボクは生きていけないから……でも、もしまたこんな事になったらと思うと…」

「…流石に毎回倒れるとは思いませんが」

一体彼の中で自分はどれほど虚弱な位置づけになってしまっているのかは不明だが、一度倒れたのが相当ショックだったのだろう。今も不安げにこちらを見る少年の瞳に浮かぶのは気遣いと心配の影だ。
けれど、それは同時に自分勝手な感情の押しつけでもある。

「ここを出ていく、ねえ……」

ガリッと口に含んだ薄い飴を噛み砕くと、横でびくりと小さな肩が震えた。

「あの……」

「君、少しは自分以外に目を向けてみたらどうなんだイ?」

「え?」


声に怯えるように金の瞳が揺れる。
水面に揺らぐ月にも見える大きな瞳には紅い隻眼と白い髪が映り込んでいて、鏡写しの自分の虚像は血色の薄い唇を開いて淡々と言葉を紡ぎだした。


「君には血が要る。私はソレを了承して、君に一度倒れてまで血をあげました。でも君はここから出ていくという。それって、私の行為を無駄にしたいとしか思えませんよ?」

「あ……」

他人への心配も結構なことだが、結局人に対するどんな感情も善し悪しを判断するのはその感情を向けられる当人の方だ。
今自分勝手な心配を押しつけられても困るとしか言い様がない。
───何故かと問えば、自分への負担よりもこの小さな子供が外に出ていこうとする事の方が余程心配に思えるから。

何百年生きているか知らないが、自己犠牲の先を考えられないこの小さな吸血鬼は見た目どおりに子供でしかなかったからだ。


「君がどれだけ私の事を心配してくれても、その結果君自身が傷付いてしまうようじゃ意味が無いんです。……君が誰かを心配に思う分、その誰かも君を心配する事を分かって下さい」

「………、」

「私は、人を大切に思う事が出来るのに自分にそれを向けられない君が独りで生きる方が心配です」

見開かれた目が惚けたように一度止まる。その目線に合わせるように少し屈み、一回り小さな手に自分のそれを重ねた。



「だから、君は自分自身の大切さが本当の意味で分かるまでここに居て下さい」



人を気遣うあまりに自分を潰し、その人自身の意思に気付くことが出来ない彼の性格は、本音をぶつけ合う事が出来る程分かりあえる誰かが居なかったからなのだろう。
弱い苗木を真っすぐ伸ばすためには人の手が要るように、その考えに縛られた彼の小さく脆い世界は誰かが手を差し伸べなければ切り開いて広げることが出来ない。
少し強引かもしれなかったが、その『誰か』になって、手助けをしても良いと思った。


「君は私を頼ってくれたんでしょう? なら、少しくらい迷惑を掛けたと思っても最後まで頼って下さいヨ」

「……ここにいて…いいんですか…?」

「さっき言ったじゃないですか。ここに居て、家事を手伝ってくれるんでしょう?」

「………っ」

じわ、と水面の月が滲む。

堰を切ったようにぼろぼろと溢れだす涙を拭おうともせずに、黒髪の少年はソファーの端に座ったままこちらの服の端を握った。
甘え方が分からない幼児のようなその所作にふうとため息を吐き出すと、細い身体を引いて抱き締めてやる。恋人にするそれではなく、母が子の為にするものに近いその行為は、自分でも長い間記憶に無いものだった。


「う、ぇ……っ」

「……君は、子供なのに独りで自分を縛りすぎてるんですよ。これからちゃんと息が出来るように一緒に緩め方を覚えていきましょう」


こく、と涙で濡れた顔が頷き、弱く縋り付く腕に力が入る。
昨日までの自分ならこんな事態になるなど想像もつかなかっただろうが、抱き締めたぬくもりを思うと自分の選択は間違っていない気がした。

『───あと、ちょっとお人好しで優しいかな』


(………、どこまで知られてるんだか)

願わくはこの数時間の出来事だけは自分達だけの秘密にしておきたいものだ、と思い出し笑いに蘇ったとある少年の言葉は、腕の中の吐息に混じって部屋の中に消えていった。



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