黒猫と革紐。 | ナノ


I Scream・アイスクリィム。


「すみません、ちょっと遅くなりました」


昨日までは答える者など誰も居なかった扉の向こうへの言葉。

気ままな独り暮らしであった身、ただいまも行ってきますもこれまでの自分の生活には無縁の物だったなと改めて感慨に耽ったが───残念ながら、記念すべき一度目のそれに答えは返ってこなかった。


「……?」

少し拍子抜けしながらも靴を脱ぎ、廊下へ上がる。
昼夜逆転な彼にとってこの時間はまさに活動時間帯だったはずだが、まさかもう寝ているのか。
一説によると仔猫は一日十八時間程寝たりするらしいが、だとするとそれに匹敵するかもしれない。

「ギルバート君?」

「………、」

問い掛けに、小さく呻くような声が聞こえた気がした。
はっとしてリビングのドアを開けると、小さな黒髪の子供は床に身体を抱えるようにして倒れているのが見える。

(……っ!)

形容してしまえばソファーからずり落ちただけに見えるのをわざわざ『倒れている』と思ったのには理由があった。
額にうっすらと汗を滲ませ、蒼白な手足を胴に引き付けたその姿はとても眠っているようには見えないのだ。時折軽く痙攣している事を加えれば尚更だろう。
出発時に渡した大きなアイスクリームの容器は薄く濡れて少年の横に転がっており、中からたらりと一筋白いクリーム状のアイスが溶けだしている。


「ギルバート君?! どうしたんですか?!」

「…ぅ……」


返事は言葉になっていない。
最悪の予感が頭を過ぎた。

(まさか……)

血を分けてくれませんか、と少年は言った。
ボロボロの格好で、裸足の足をぺたりと地面に着けて、どう見ても今まで誰かと共に暮らしていた様子などなかった。
人見知りで泣き虫で、それでも彼が人間に頼った理由は。

(───限、界?)

そこまで考えて、後は勝手に身体が動いていた。
キッチンに駆け込み、めったに使わない細身の果物ナイフを取り出して少年の下に屈み込む。

「っ……」

ぴっ、と腕の皮膚が引きつる感覚と、神経を駆ける痛覚。
赤い雫が落ちたのを確認して、それを苦悶の表情の小さな吸血鬼の唇に当てた。
けれど、苦痛に歯を食い縛っているのか中々口が開かない。


「ほら、ギルバート君!」

「……、…っ……」


(まずい……)

手足は青ざめ、気温が高い訳でもないのに首筋には汗の珠。相当な苦痛であることが見て取れる。
子供の口に一般より細いとはいえ大人の手首を押し付けたりよもや無理矢理口をこじ開けるわけにもいかず、こうなって残る手段といえば点滴ぐらいだろうか。
だが当然そんな物が部屋にあるはずもないしインテリアみたいにどんと置いてあっても困る。

少しだけ逡巡して、そして手元のナイフを掴み直した。


「ったく、厄介な患者だ……!」


傷を重ねるように刃を滑らせ、それを自らの唇に押し付ける。
下手をするとこちらまで気分が悪くなりそうな程一気に鉄の味が咥内に広がり、ぐっと眉根を寄せた。

(…ここまでやらせておいて間に合いませんでしたじゃあ洒落になりませんヨ……)

ある程度まで流し込むと口を離し、傷が塞がらないままの腕で小さな身体を抱き上げて口付けた。
そっと零さないように舌で唇を開かせ、ゆっくりとむせないように飲んだ血を移す。


「……けほっ」

「ギルバート君…?」

落ち着くように抱えたままで背中をさすっていると心なしか先刻よりも手足に血色が戻ったように見え、その様子にほっと息を吐く。

「まったく……」

唇の端を自分の血で汚し、一体どちらが吸血鬼だか分からないような状況だったが、とにかくこの小さな命が消えなくて良かったと損得も何もなくそう思えた。

しばらくすると、汗が引いた身体がぴくりと反応を見せる。


「……ブレイク…さん…?」

「はあ……厄介事を増やさないで下さいヨ…」

「えっ、あ、すみません…その……」


美味しかったので、と訳の分からない事を口走る小さな吸血鬼。
味覚は人それぞれというのでそれも結構なことだが、それにしても必死になって血を与えた側にしてみればもう少しマシな回答はなかったものだろうか───

「……アイスが」

「え」


ストップ。


「…もう一度言ってくれませんか?」

「え、だからその……アイスを食べてたら急にお腹が痛くなって……」

「アイスが?」

「はい」

「………、アイスが?」

「はい…?」

重要なことなので三回聞いておく。

「…アイ「ごっ、ごめんなさいっ!」

抱えられたままで、腕の中の少年は泣きそうになりながら謝った。急速に身体からへなへなと力が抜けていくのが分かる。勘弁して下さいよと愚痴るだけの気力もない。
それに、よくよく見てみればバケツサイズのアイスは一欠片分を残して綺麗に空っぽだった。

小さな身体にあれだけの量を詰め込んで腹を冷やさない訳が無い。


「………ギルバート君……」

「だって…あの…食べてて良いって言ってたので……ふぇ…ごめんなさい…っ」


地の底から這ってくるような重低音ボイスにびくりと涙ぐむ金の瞳。要するに骨折り損という奴だったらしいが、一連の行動の中で踏ん切りがついてしまったのもまた事実だった。
冷血とは思わないが、何に対しても冷めた反応を取っていた自分が後先考えずに動いた事。
それだけで、もう十分といえるのではないのだろうか。

(らしくない、か……)


「あーあ……これでもう嫌だと言えなくなりましたネェ」

「……?」

「君にご飯をあげるコト」

「あ…」


口にこびり付いた赤を見て言いたいことを汲んだのか申し訳なさそうに黒髪の吸血鬼が身を縮ませる。
そのやわらかい髪にぽんと手を置いて、小動物にするようにくしゃくしゃと撫でてやった。

「ま、これからその分家事でもしてもらいましょうかね」

「は、はい! がんばります」

「でもその前に……」

「?」


くらっ、と地面と天井が平行に滑った。
これはあくまでも自分ビジョンなので実際は反対なのだろう。

「えっ───ブレイクさんっ?」

出血から十五分。
普段の好き嫌いが祟り十分に鉄分を採っていなかった身体はそのまま床にぺったりと着地した。


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