黒猫と革紐。 | ナノ


四人乗り軽自動車と免許不携帯。


速度三十表記。メーター二十四。


「……あのさ、先生」

停止信号。黄色で停止。

「何です?」

一時停止表記。三メートル前で停止。
………。


「この車もっとスピード出ないの!?」

「あー、気が散るから助手席で叫ばないで下さいヨ」

「にしても限度があるよ限度が! 良いじゃん道ガラガラなんだから少しくらい飛ばしたって!」

「ダメです。そういう弛みが事故の元なんですヨ」


先生のけち! と思い切り助手席から暴言が飛ぶ。
もう夜だし安全運転で、とか何とか言っていたのは確か隣の少年の筈だったのだが、とブレイクはため息を吐いて、少しだけアクセルを踏み込んだ。
たかだか一キロもない病院までの道程だがこう同乗者が騒がしいと一キロが四キロにも五キロにも思えて仕方ない。しかも四人乗りの後部座席に座っている少女はいつのまにか眠り込んでいるし。

(起こした時に入れ代わられると面倒なんですよネこれが……)

過去にも一度似たような事があって二人を病院まで送ったことがあったが、あの時は散々だった。

帰路の途中で物静かで扱いやすい方から活発で面倒な方へと入れ代わりが起き、しかも活発な方は車に乗った記憶など無いものだから後部座席を蹴るわ早く出せとハンドルを引ったくろうとするわで病院につく頃には双方ボロボロの状態だったのだ。おかげで医者が同じ病院の外科に掛かるという実に貴重な体験をさせて頂いた。
もう二度と形成外科のアホ毛医局長には会いたくないというのが当時の感想である。


「大体夜にスピード出すなんて捕まえてくれと言うようなものじゃないですカ」

「って言って実は免許証家に忘れたから捕まって減点されるのが怖いんだろー」

「……アリス君寝てるんですカラ静かにして下サイ」

「はいはーい」


きっ、と軽くブレーキを掛けて赤信号を止まった後に交差点を左折。目指す病院はもう半分ほど見えかけていて、その窓はまだこうこうと明かりがついていた。

職員用の駐車場は裏に回らなければならないのでぐるりと建物を回っていると、後少しというところで後ろの少女を起こさないように小さく少年が口を開く。


「ねえ先生、一個聞いていい?」

「構いませんが、なんでしょう?」

「…先生はギルのことどう思ってるの?」

「ハイ?」

唐突な質問だった。
疑問符を浮かべて聞き返すと、彼は暗闇に携帯のバックライトを光らせながら言う。

「だってさ、先生ならあのまま施設に引き渡すか警察に連れて行きそうなのに、そうしないでずっとギルの事心配してるでしょ? ちょっと先生らしくないなって」

「はあ……らしくないですか…」


言われてみてもすぐにそうかとは納得がいかない。
一応、あのまま施設に引き渡したりしていればその後色々と面倒なことになりそうなので家に留めているのが現状なのだが、それは自分らしくないのだろうか。

「んー…逆に、オズ君から見たら私はどんな人間なのかい?」

「うん? 合理的で面倒な事が嫌いで捻くれてて怪しくて……」

「………、」

何だかプラス要素が皆無な気がするのは自分だけだろうか。
けれど微妙な顔でつらつらと続いていくそれを聞き流していると、最後に一つだけ少年が付け加えて呟いた。


「あと、ちょっとお人好しで優しいかな」

「全十二項目中で長所はそれだけですか」

歩道の段差を抜け、バックで綺麗に枠内に車体を収める。
開けていた窓を閉じてエンジンを止めるとまだ降りる気が無いらしい少年はちらりと後ろを見て、それからふっと淡く微笑んだ。
それほど重ねられていない歳に似合わない、陰りを含んだやわらかい笑み。


「個数じゃ長所がそれだけなんて言えないんじゃない?」

「さあ、どうでしょうね。第一君の言った事ですが?」

「でも良い所とか悪い所って物みたいに数えるものじゃないってアリスも言ってたよ」

「今の?」

「ううん、今じゃない」


少年の眼差しは優しく、そして少しだけ違う感情を含んでいた。
今じゃないんだ、ともう一度口にして、少年は後部座席に手を伸ばした。
そこには手足を胴に引き付けるようにして二人分の座席に眠っている茶色い髪の一人の少女が居る。

「ねえ先生、アリスはすごく頭が良いと思わない?」

「それはどちらの?」

「どっちも。……どっちのアリスもオレには変わらない大事な子なんだ」

とんとんと軽く金髪の少年は少女の肩を叩く。
僅かに瞼が震えて、それから大きな瞳がその間から覗いた。


「ん……」

「着いたよ、アリス。おはよう」

「ジャッ…ク……?」

「ううん、オズ。オレはオズだよ」

「……?」


(………、)

珍しく少年が偽りの名前を否定する。その意味が分かってさっと車のキーを抜くと、期待通り背もたれを揺らす衝撃が襲い来た。

瞬間、ドゴン! と安いシートから埃が立つ。


「───どこだここはっ?!」

一拍置いて、甲高く少女のクリアな声が轟いた。

「私のクルマの中ですが」

「何でお前が居るんだこのピエロ!」

「何でと言われても……私の車ですからそれは当然ですヨー?」

「前もこんな事があったがさてはお前『ろりーたこんぷれっくす』とやらか?! オズの雑誌で読んだぞ!」

「………、オズ君」

「…はーい」

暗に何とかしろと目配せをすると乾いた笑いを浮かべながら金髪の少年が暴れる少女の手を引いた。

「アリス、とりあえず部屋に戻ろう? あんまり遅くなるとみんな心配しちゃうからさ」

「おいオズ、その前にピエロをけーさつに突き出すぞ! こんな奴を野放しに出来るか!」

「あ、ひどい」

仮にも担当医師なんですが、と微妙にショックを受けているとそれを見て少年がクスクスと笑い声を漏らす。ドアを開けて地面のアスファルトを踏み付けると冷えた夜気が身体を抜け、瞬間ばっと脱兎のごとく逃走しようとする少女の手を間一髪で掴んだ。


「っ、離せこのピエロっ!」

「こらこら。ほらオズ君、ちゃんと手を握ってて下さいヨ」

「もう、危ないよアリス」

「むぅ…」

少年には弱いのか彼女は不服そうに口を尖らせ、しかし素直に手を差し出した。いつも乱雑な彼女のおとなしい兎のような姿を見るといつも思うが、彼の将来はきっと動物の飼育員とか水族館の調教師に向いていると思う。サーカスの動物使いでも可だ。
一つ伸びをして見上げた病院の白い明かりはもういくつかの階に限られており、既に面会はおろか消灯の時間も過ぎていた。


「私が行くとちょっと目立ちますね。二人で大丈夫ですカ?」

「うん、平気。行きは中庭の木を伝って来たけど、今のアリスなら登りだって大丈夫だよ」

「?」

きょとんと少女が瞬きをする。木登りも何も運動に関する事は飛び蹴りだろうとやってのける彼女にとってその言葉はむしろ疑問なのだろう。
性格によるものなのか現在の快活な方が運動神経は良く、どうやら彼女達は無意識に抑えをかけたり解いたりして性格ごとに身体の能力も入れ替えているようだ。
───もっとも、あのおとなしい方の少女も担当医師に飛び蹴りを放つようになってきたらそれはそれで対応に困るのだが。


「では、くれぐれもバレないように頼みますヨ?」

「医者の台詞じゃないよねー、それ」

「何せバレたら私にまで火の粉が飛びますから」

「……やっぱり先生、優しいよね」

「は?」


にっこりと笑って意味深な台詞を呟いた少年は少女の手を引くと何でもないとのたまって、暗い病院の敷地に足を踏み入れた。


「じゃ、ギルによろしくね先生」

「ハイハイ」


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