残業無、定時帰宅。
───先生。
貴方がボクの目の前で居なくなってからもうどれだけ経ったのか。
正直、覚えていません。まだオレンジのランプしか無かったようなあの時から、それだけ長い長い時間が過ぎていきました。
でも、今こうしてボクが生きているのは、貴方の教えを守っているからではないんです。本当なら、先生が死んだあの日にボクも一緒に消えているはずでした。でも、それは出来ませんでした。
怖かったんです。
貴方を亡くして独り生きていくことは恐ろしくて出来そうになかった。だけど、独りで自ら命を断つことはもっと怖かったんです。
あの時のナイフは、いつの間にかどこかに行ってしまいました。
ボクは、これで良かったんでしょうか。
───分かりません。
「………、」
夜、といってもまだ夕方の午後六時半。
家に帰ると、行きと同じくベッドの上には謎の巨大団子(中身はタオルケットと言えないモノ)が転がっていた。
日が射すのが苦手と言うので家中のカーテンを閉め、さらに窓の無い寝室の扉という扉を閉じて完全密室状態を完成させていたというのに、この少年はまだ足りなかったと言うのだろうか。そっとタオルケットを捲ると、そこには手足をぴったりと胴に引き付けた小さな姿が眠っている訳で。その状態を分かりやすく言うと、母親の胎内に居る胎児とでも表せるだろうか。
すうすうと寝息を立てるそれには、何故か頬に一筋濡れたような形跡が残っていた。
『───精神異常者っていうより、吸血鬼みたいだね』
(…まさか、ね)
一瞬浮かんだ昼間の会話を頭から振り払い、目下の少年の方へ屈みこむ。
幼い寝顔。軽く握り締められて見えない手の平。自分が貸した白いシャツとジャージ素材のズボンは少年にはいささか大きすぎたようで、袖が幾重にも折り込まれている。頭から爪先まで眺めてみたが、どこから見ても普通と変わらない彼にまさか鋭い牙だの返り血だのがある訳もなかった(もっとも昨夜どうせ起きているなら風呂に入れと浴室に押し込んだので無くて当然なのだが)。
「…ギルバート君」
「………、」
「ギルバート君」
「………、ぅ」
とんとんと肩を叩き、名前を二度呼ぶとやっと僅かな答えが返ってくる。
もぞもぞと小動物のように手足を伸ばし、うっすらと目を開けた瞬間に覗いたのは、昨日より少し濃くなっているような気がする金色だった。
「う…ん、……おはようございます」
「もう夜なんですけど。大丈夫ですカ? そんな身体丸めて寝ていたら固まっちゃうでしょう」
「いえ、大丈夫…です」
寝起きなので少し跳ねた髪を押さえ付けながら身体を起こし、むにゃむにゃと少年は答える。
「すみません、寝起きはあんまり良くなくて……でも、久しぶりに暖かいところで寝れたからすごく良く眠れました」
(………、また)
にこ、と微笑んで言ったその言葉に、彼と出会って数度目の引っ掛かりが生じる。
久しぶりに暖かいところで眠れたなんて、見た目には十五そこそこの少年が言う言葉ではないだろう。同い年程度の患者や見舞いの少年達と接している事もあり、なんとなくこの年代の子供がどうあるべきかが分かるのだが、どう考えても何かおかしい。
寝起きの人間に聞くべきではないのだろうが、それでも浮かんだ疑問は打ち消せなかった。
「君は……いえ、君は何の為に血が要ると言ったんですか?」
(馬鹿か、私は…)
危うく吸血鬼なんてイレギュラー極まりない単語が飛び出しかけ、慌てて方向転換した。君は吸血鬼ですか、なんて、どうかしたんですか大丈夫ですかとこちらの方が聞き返される可能性がある。
けれど、
「……えっと、その」
「…吸血鬼」
「え?」
「あ」
ぽつり、と。
飛び出した勝手な呟きに、少年はきょとんとした顔をした。
慌てて独り言だと補足したが、まあ当然だろう。下手をしたら寝起きでまだ夢の中に居るのだと勘違いされるかもしれない。
だが、返ってきたのは意外にもしっかりとした声で。
「うーんと───あの、何で分かったんでしょう?」
「は?」
「いえ、その、先生ならこういう時こう答えるかなって……あはは、すみません」
「………、」
沈黙したのは自分でも整理のつかない反応を押さえ込む為だったが、少年は別の意味に捉えたらしい。ぎゅ、とタオルケットを握った手が白くなる。
「あの、ごめんなさい。騙すつもりなんて無かったんです。でも、貴方はボクに普通に接してくれたから……言いだすタイミングが分からなくて。気持ち悪いですよね、吸血鬼なんて」
「いえ、そういう意味で黙ったんじゃないんですけど……」
「いつもそうなんです。結局生きてく為にどうしても最後は自分が何なのか言いださなくちゃいけなくて……でも先生みたいにボクは人に接することが出来なくて…いつもいつもせっかくボクを置いてくれた人の所を飛び出してきて……ボクは…っ」
「おーい、聞いてます?」
一人勝手にセルフネガティブモードに切り替わって喋りだした少年に微妙に退きつつも声を掛けたが返事が返ってこない。
そうなんですそうなんですと思い切り自虐思考満喫中な少年はどう見ても自ら火に油を注ぎまくって大炎上のご様子だ。思ってもみなかった反応にどうすれば良いのかと対策を考えてみるが、喜ばしいことに自分の対青少年スキルは全くのゼロ。
精神科って肩書きは意外に役に立たないな、と認識を新たにするばかりである。
「大体先生が居なくなってからずっとこの調子で…っ! もう五十年近くずっと同じ事を繰り返してて……っ、本当にボクは…」
(……ええー)
ひっく、とついに瞳に何やら透明な雫が込み上げた彼に対し、うわあ人生の三分の一こんな事繰り返してるんだこの子、などと思った事は極秘事項だ。
誰かに救援を求めたい所だが、そんな事をすれば即刻児童相談所に通報されるだろう。面識の無い青少年を自宅に連れ込んだ挙げ句泣かせたなど諸々の事情があるとはいえ気分の良いものではない。
だが、ならばこのままで良いのかと聞かれれば無論それはノーであって。
さあどうしようかと頭を悩ませた末に、とうとう物理的手段を取ることにした。
物理的手段、つまり、
「ギルバート君」
「だって…っ、ふぇ…ボクは……うぅっ」
「───口閉じないと舌噛みますヨ」
ふぁい? と色々間に合わなかった台詞を吐くより前に。
ばっちーん!! と頭を斜め上から襲う衝撃ときらめく星々が少年の思考を綺麗に遮断した。
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