黒猫と革紐。 | ナノ


いつか君を愛せる日まで《BG+EG》


それを見たのは、ほんの半刻程前の事。
ただの兄弟、それも血の繋がりもない義兄。ただ、それだけだったのに。


『っ…ふ、』

『……にが、…ですカ?』

『…、こんな場所…』

『あーもう、……で…』

『んっ……』



ばたん。扉を閉じる音。

(今の…男)

確かパンドラで幾度か見た顔。
彼が中立という身軽な立場を利用して、何回か義兄に近づいていたのは知っていた。

閉まった扉を追うように香る砂糖の匂い。人当たりの良い軽い笑みを浮かべ、見下ろすような白い男の表情が退路を断つようにフラッシュバックする。
そして浮かぶ、僅かに頬に赤みを差した義兄の顔。


あんな顔は、知らなかった。
自分が知る彼の表情はいつも何かに急き立てられているかのように優れず、切れる寸前の張り詰めた糸のようだった。受け入れる準備が無いままに水を受ける、壊れ掛けたグラスのような。
だから彼に近づいていたその男の事も、彼自身ではなく『ナイトレイ』という銘柄に何らかの意図を持っているものだとばかり思っていた。

───なのに、今見た光景はそれらを全否定した。


(あんな顔は……知らない)

乱れた着衣から覗く肌には幾つも紅い痕が残っていた。扉を閉める瞬間に諦めたように腕を首へ回す姿が見えた。
そして僅かな隙間から、男の紅い瞳がはっきりとこちらを見据えて笑い掛けた。

知っていますよ、と。


「っ」

人を呼んでしまえ、と頭のどこかで声がする。来客など聞いていない。
ここはナイトレイの屋敷だ。
不法に侵入した人間を放っておく道理はないのだから、使用人を呼んでもう一度扉を開けて捕らえてしまえば良い。
しかし、

(……それで、どうする?)

義兄がそれを庇ったら。襲われていたと虚言を吐けば自分が追求するつもりなのに、心の隅でもしもその男との関係を認めたらどうなるのだろうと何かを恐れている自分が居た。
関係ない。自分には何の関わりもないことだ。
なのに、何故か胸の奥がいきり立つように騒ついた。

ずきり、唐突に痛みが走る錯覚。
その感情の名前など知る訳もなく、ずるずると扉の前に座り込んだ。

───それが、半刻前の事。





「………、」

耳鳴りがする。灰色の海に足を浸したような、ただ何もなく広がっていく波の雑音に飲み込まれていく気がした。
もう扉の中からは何も聞こえない。僅かな気配だけが漏れるそれにそっと手を当て、そして力を込める。
ぎい、とその扉は意外にも簡単に開いた。

広い部屋。自分の部屋と同じ間取りなのに、どこか寒々しい。
そして必要最低限の簡素な調度品だけが揃えられたそこで、シーツに沈み込むようにして眠っている黒髪が見えた。否、眠っているというよりも意識が無いと言った方が妥当かもしれないのだが。
よく見なければ分からない程僅かに上下する身体は湿ったシーツにべったりと背中を預け、それほど長さがないために頬に張りついた髪はまだ少し濡れているように見える。

汗と別の何かが混ざったような嫌な匂いが鼻を突く。
疲れ果てたような表情に一筋流れている水の跡が鈍く残り、時折痙攣するように小さく唇が震えていた。


「……おい」

何と言えば良いのか分からず、とりあえず上から見下ろしながらそう声を掛ける。
当然ながら、返るべき返事はない。

何をやっているんだと息を吐きながらもただ義兄の姿を見下ろしていると、ふいに転がった原色が目に飛び込んだ。
華やかなプリントの、そこそこ名の売れた菓子屋の飴玉。どう見ても後から握らせたようなそれからは汗ばんだ手の所為だろう、言われなければ気付かない程ほんの少し甘い匂いが漂っていた。

こんなものを義兄が口にするはずがないのに、と皮肉に眉をひそめながらそれを握ると、カタリと何かが落ちた音が鼓膜を揺らす。


「……?」


ちょうど何かの蓋が外れたような音。不審に思って辺りを見回すと、それは地味な色合いのキャンディポットだった。
ベッド横のチェストに置かれたそれは許容量以上の中身に耐えきれずに落とした蓋を転がし、開いた口からはその中身がいっぱいに入っているのが見える。


「飴……?」

おそらくは同じ菓子屋からのものだろう、握られているものと全く同一のそれ。
こんなものを、彼が食べるはずがないのに。

そう腑に落ちずにいると、少し擦れた声が自分の名を呼んだ。



「───エリ…オット……?」

「…ギルバート」


いつのまに覚醒したのか、閉じていた瞼は薄く開いて奥から淡い金色の瞳が覗いていた。
その瞳は少し驚いたように一度細められると、追ってゆっくりと落ち着いていく。
開かれた唇からは、思いの外静かな言葉が零れた。


「蓋…落ちたのか」

「ああ」

「……あんまり…見せたいものじゃ…なかったんだけどな」

「だろうな」


頷いてポットを落ちた蓋と重ねて渡す。義兄は怠そうに起き上がるとそれを受け取り、気付いていたのか握っていた飴玉を一つその中に落とした。
それで理解する、減るはずもない中身の意味。
重ねた回数だけ増えていく砂糖の塊は、その中には納まらずぽとりとシーツに転がった。


「…ごめんな」

「謝らなきゃならない事をしてるのか?」

「だが…歓迎される事でもないはずだ」

「………、」

そうか、と落ちた飴玉を拾い上げ渡すと、もう入らないからいいと拒否された。


「欲しかったら…持ってくか?」

「ふざけるな」

「………、そうか」

力なく笑って飴を握ったその顔は酷く疲れていて、いつふわりと倒れてもおかしくなさそうに見えた。その様子に少し違和感を覚えたが、黙り込んだまま相手を見下ろす。
もう一度そうかと呟いて飴を眺める横顔は色が失せて陶器人形に近くすらあるのに、それとは反対に首の下には幾つも赤く鬱血した痕が覗いていた。



「……代価、なんだ」

「………、」

ぽつり、聞いてもいないのに言葉が漏れる。
それは誰かに話さないともう耐えられないような、見えない涙のようにも思えた。


「オレの目的の為に払う…コインだと…言われた」

「…お前はそれで良いのか?」

「………、分からない。もう、考えられないから」


ポットの中いっぱいだっただろ、と自嘲するように笑ってみせたその顔は何故か泣きそうで、壊れる寸前の硝子細工のようだった。
影の差したその表情に何故か苛立ちが募る。

(………こいつは)

逃げている、と思った。
自分から思考する力を手放して、『出来ない』と嘯く。
それはただの、逃避だ。



「……お前は、何をしてるんだよ」

「…エリオット?」

「お前は逃げているだけだろう。考えられないんじゃない。───考えようとしてないだけだ」


自分の中で騒ついていた感情の理由が半分だけ分かった気がした。
気に入らないのだ。変えられない事実ではなく、その事実にほんの僅かでも抵抗せず押し倒された義兄が。

「っ、」

湿ってべたつくシャツの襟を掴んで思い切り引き寄せる。
衝撃でキャンディポットが手から落ち、ばらばらと中身が散らばった。


「……嫌なら抵抗してみろよ。もしお前が嫌じゃないとしたらそんな顔はしてないはずだ」

「…だから…オレはもう、」

「逃げんじゃねえよ!」


言って、引き寄せた唇に強引に口付けた。
見開かれる瞳もびくりと震えた肩も無視して、そのまま払うように繋がりを切る。
一瞬、唇に残る相手の体温。名前も知らない感情の残りの半分。


「っ…エリ、オット……?」

「お前があいつを好きでこのままで良いならオレは構わない。……けど、好きでもないのに良い様にされるのは気に入らないんだよ」

「え……」

「逃げるなよ。抵抗して、それから初めて諦められるんだよ。お前はそれをしてない」

手を離しても、投げ出された身体を起こそうともせずに義兄はただ茫然とこちらを見返すばかりだった。
一つ舌打ちをして足元に散らばった飴を拾い上げる。


「女々しく数えるぐらいなら全部捨てろ、こんなもの」

「お前……」

「…オレは、好きでもないのにあんな奴に抱かれるような兄弟なんてご免だ」


吐き捨てて握り締めた飴をぞんざいに投げる。音がした先で、砂糖の塊には亀裂が入っていた。


「……エリオット」

「さっさとシャワーでも浴びて服着ろ」

「…ありがと、な」

「………バカ野郎」



悪態をついて見た義兄は、ふわりと笑っていた。
その瞳がすうと細くなり、見ているうちに糸が切れたようにシーツに沈んでいた身体が寝息を立て始める。相当疲れていたのか服を着ろと言ったのに眠ってしまった黒髪をそっと撫で、今度は額に軽く唇を寄せる。


「……抵抗して駄目だったら、今度は誰かに頼れよ」


かなり無謀な言葉の後で、もう一度眠った表情が綻んだ気がした。



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borderline続編。



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