黒猫と革紐。 | ナノ


borderline《BG》


※流血表現・描写等有。



「っ…は……」


ランプの下で濡れる赤。転がった腹から半分飛び出した臓物のぬらぬらとした脂っぽい艶。鼻を突く鉄の混じった異臭。
幾度目かの仕事で放った鉛の弾は、あっけない程簡単に人をただの有機物の固まりに貶めた。

小さな子供が居たらしい。家族は廊下を一つ離れた所で今も寝ているようだ。年老いた母親の誕生日は一週間後。
床に転がる『それ』に関するあらゆる情報が鮮度を失い、そしてその犠牲の上に内容も知らない書類数枚分のちっぽけな交渉がそれのおかげでほんの少し有利になる『かもしれない』。

仕事で人を殺す理由なんて、そんなものだった。


小さな犠牲。そう片付けて、けれどそれが続けば小さな犠牲は大きな犠牲に変わっていくのに。子供でも分かるその程度の事がこの数ヶ月で分からなくなってしまった。
自分の考えは、いつの間にか他の誰かが考える事に吸収されて消えてしまった。


何かを人から奪ってはいけない。
だから人を殺すのはいけないことだ。


優しく微笑みながら子供にそう教える大人が、自分にはそう教えてくれない。自分だけがみんなが守るたいせつなことから外れていく。
自分だけが、べっとりと汚れていく。


「う、」



ぎゅ、とぬくもりが移った鉄の筒を握り締めた。
胃が気持ち悪い。何かにゆっくりと圧迫されていくような感覚を覚え、ずるずるとその場に座り込む。
口の中に酸味を感じたが、嘔吐感を押さえ込む方法はずっと前に覚えた。息を落ち着かせて、目を閉じる。けれど、たったそれだけが何故か今日だけ出来なかった。


───小さな子供が居たらしい。
家族は廊下を一つ離れた所で今も寝ているようだ。年老いた母親の誕生日は一週間後。


ぐるぐると情報が巡る。
ただの肉の塊になったそれに付属していた情報。事前に読んだ、四行ぐらいのちっぽけな文字。その断片。
そしてどんなにちっぽけだろうが確かにその人間を形づくっていたそれを、自分は壊した。奪った。
あっけない程簡単に、そして行為はそれ以上に素っ気なく。
自分が、殺した。


「ぁ───う、ぁあ」


がり、と手袋の端を噛む。
そこに染み渡る唾液が生暖かい。
気が付けば、何も聞こえないのに耳を塞いで叫んでいた。

重い。仕事が、責任が、目的が、命が。
救いたいもののために何かをころす。

それが、今日に限って潰れそうだと思った。






「なーに、やってんですカァ?」



そうして、ランプの下に照らされながら雑音の中で蹲っていると、サイズの合わない靴音が麻痺しきっていた鼓膜を叩いた。

「……れ…い、く……?」

どうして。
いつの間に入ったのだろう、オレンジの灯りの中に伸びる影。そんな当たり前の疑問すら分からなくて泣きそうになった。
かろうじて吐いていない自分と床に転がった塊、入り口らしき開きっぱなしの戸棚。それらを順に見た白い男はちょいと爪先で何かの断片を引っ繰り返すと、ふーんと興味が薄い様子で息を吐いてこちらに向き直った。


「その床はそんなに座り心地が良いんですカ?」

「………、」

そんな訳無い、と俯いたままゆっくり首を振る。何だか妙に現実感が薄れたような、ふわふわとした感覚だけが確かだった。
何をしに来たんだろうか。満足に仕事一つ出来ない自分を見て、彼は何を思うのだろうか。
淡くオレンジに染まった白が、今はただ目に痛い。


「じゃあ、帰りましょうか」



すっと差し出される手。柔らかい笑み。
そんなものは日溜まりの下で貼り付けておけば良いのに、どうしてこんな場所でそれを浮かべるのだろう。


「もうここに用はないでしょう?」

「……無い…」

「それともここに居たいですか」

「………、」



答えない自分を、男は笑った。
選ぶまで待っていてあげましょうと。
けれども最終的に、答えは出なかった。
ここに居たい訳ではないのに、唇が重くて動かせない。自分の考えが静かに溶けて、ひゅうと歯列を空気を掠める乾いた音が部屋を通った。


「……いいでしょう」


たっぷりと時間を置いた後で呟かれた言葉は、不思議と楽しそうに聞こえた。



「自分の考えを持たない事は実に良いことですヨ。真っ直ぐな信念はすぐに心を犯される」

特に、君のようなお仕事の人は。
ただの歯車になる事がどれだけ自分の身と目的を守ることか。


「やっとお仕事に慣れたようで嬉しいですネ。鴉」





さあ帰りましょうと手を取られ額に落とされたキスは、何故か酷く甘かった。



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鴉として仕事を始め出した頃(多分)。
image Song→空想庭園依存症


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