黒猫と革紐。 | ナノ


それは夢《VG》


───君が、居なくなる夢を見た。


早朝、午前五時。
それは普段より少しばかり早い目覚めに僅かに違和感を覚え、ゆっくりと瞳を擦りながら廊下へ繋がる扉に手を掛けた暗い朝の事。
外は雨でも降っているのかしっとりと湿り気を帯びた淡い金髪は部屋に飛び込むなりそう言って、半ば崩れ落ちるように肩を掴んできた。

突然の事に驚きつつもその身体を支え受け止めると、その向こうで開け放たれた窓から入り込んでくる冷たい雨の匂い。
二色の双眼を赤く腫らして、同じ顔をした少年はぼろぼろと涙で頬を濡らしていた。


「ヴィンセント? ……泣いてる、の?」

「………っ、」

「大丈夫?中に入って……」


手を取って中へ招き入れ、まだ布団が乱れたままのベッドの縁に座るよう言うと、弟はこくりと頷いてその言葉に従った。やわらかい布団を下に敷くようにして座り込み、少し震えている背に手を添えてやると、ひゅうひゅうと擦れた笛のような呼吸が耳に届く。

紅と金の双眼はこちらからでもはっきりと分かる程透明な雫を溜め込んでいて、それは少し触れればまたすぐに零れ落ちてしまいそうなそんな危うさを持っていた。


「……何か…あったの?ボクで良かったら、聞かせて?」

瞳に溜まった涙を指先で拭ってやりながら問い掛ける。
背中を抱えるようにして擦ってやり、ゆっくりで構わないと頭を撫でると落ち着き掛けた弟の薄い唇が震えるように動いた。それは小さな子供が言葉の響きに怯えるような弱い声色でごくごく小さく、二文字の言葉を形取る。


「…夢……」

「ユメ?」


窓を打つ弱い雨の音にすら掻き消されそうな小さな声で呟いた彼は、言い終えるとゆっくりこちらに手を伸ばしてきた。
壊れたガラスに触れるように、肌が切れるのを恐れるように、その手はかたかたと不安定に揺れる。



(………、どうしたんだろう)

以前にも夜に魘されている事があったのには気付いていたが、ここまで酷いものは初めてだった。
真っ赤に腫れている瞼は随分と早くから泣いていた事を示しているようだったが、だというのに未だに涙を零しているというのは余程の事があったのだろう。その理由を想像するのは難しかったが、彼は一つ息を吸い込んで吐き出すと弱々しく震える手を握り締めてこちらを見上げた。
一瞬迷い、そして合う不安定な視線。


「ギルが…居なくなる夢……」

「ボクが?」

外を打つ雨音が少し強まった。開けたままのドアからベッドとチェストしかない簡素な部屋へ、ぺったりと張り付くような空気が入ってくる。


「夢の中で目が覚めたら………どこにもギルが居なくて」

そう呟いて肩に縋り付く細い腕に切れる寸前の糸を見たような気がして慌ててその手を取った。
軽く包むようにして血色の悪い指先を握ると、色の白いそれは氷のように冷えている。今にも崩れ落ちてしまいそうに不安定な弟の姿に何でもいいから会話を続けた方が良いと思い、急き立てないようゆっくりと質問した。


「それは……ボクが死んじゃったってこと?」

「………ううん」

ふるふると首を振って、ヴィンセントは肩から首へと縋る先を変えた。胸に顔を埋めるように押し付けている為か先程から湿り気を帯びた金の髪がふわふわと鼻先を掠めている。
カタカタと小さく震えている肩を抱き締めると、耳元で繰り返される不規則な呼吸。それがどうしようもなく安定を欠いている気がして、自然と腕に力が込もった。


「……ボクが…此処から出て行ったの?」


髪を指で梳き宥めながら問う。

問い掛けたそれは決して遠くはない、可能性のある未来だ。
白い上司の手駒として過ごしている今はあくまでも限られたものであり、目的の為なら何を利用しても構わないという彼の考えはいつの間にか自分という人間の深い所まで染み付いてしまっているから。

存外、弟が見たものは自分の辿る先を示した暗示なのかもしれない。


(………、)

気付かれないように下唇を噛んでいると、不思議そうにこちらを見る淡い金。そして縋るように抱きついていた彼は小さな声で、その予想を否定した。

「……違うの?」


問うと、シャンパンのような淡い金の髪が僅かに嗚咽を漏らしながらこくりと頷いた。否定すると共に、彼は切れ切れになる言葉を繋いてゆっくりと自分が見た夢の出来事を継ぎ合わせていく。
それはまるで塞ぎ切らない傷口をペンで抉るようで酷く痛々しいものだったが、そうする事で自分が見た夢をただの夢だと思い込もうとしているようにも見てとれた。───あるいは、それほどまでに自分の見た幻影に怯えているのか。



「───、」



………目が覚めたら兄の姿は見えなくて。
けれど、二人の部屋にも廊下にも変わりはなくて。

溶け出したように痕跡の見えないそれに急に不安になり廊下に立っていた義兄に聞くと、彼は不思議そうな顔をして此処にそんな奴は居ないと、そう告げたのだ。
からかうでもなく邪険に接するでもなく、ただ純粋に存在しないと。
それから義兄はどんな人を探しているのかと気遣うように訊ねてきたが、それに答えようと口を開いた途端に奇妙な変化は自分自身にも起きている事に気付いた。

問いに答えようと、開かれた唇から出てくる言葉。
しかしそれは、乾いた喉が空っぽな気体を吸い込む呼吸音だけだった。



『   。』


空白。虚無。そんなものばかりが唇から零れる。
まるで何かがぽっかりと抜け落ちたように、思い出せないのだ。

どんな容姿かと聞かれても、自分の中にあれだけはっきりとあった兄の面影が、まるで塗り潰されたかのように。

声も、姿も、背も、瞳の色も。

そして、呆然と立ち尽くしている廊下は気付けば自分しか居ない、ドアも窓も家具もない真っ白な部屋に変わっていて。
性格も自分との関係性も分からないただ『兄』とだけ分かる存在を探して一人泣いていた所で、ようやく夢から覚めたのだ。




「………、」

「ヴィンセント……大丈夫?」

「う、ん…」


寝間着の胸が濡れる感触がやけに生暖かい。まだ泣くことを止めない弟からゆっくりと身体を離すと、厚い布団を引き上げてその薄い肩に掛けた。


(本当に………夢、なのかな)

───動揺していない、と言えば嘘になる。
真っ赤に腫れた眼。血の気の失せた肌。それらは端的に今の彼の状態を表す鏡だ。
それほどまでに影響を受ける原因がただ一度きりの夢だとは思えなかった。傍目に見てはっきりと分かる程ぐったりとした身体をシーツの上に寝かせてやると、もう一度布団を掛け直す。


「………ギル…?」

「もう少し寝た方が良いよ、ヴィンス。落ち着いたら起きれば良いから」

「でも……」


頭を撫でて隣に座ると横向きにこちらを見つめる瞳が不安そうに揺れる。それは痛々しく感じる程はっきりと、眠る事への恐怖心を物語っていて。


「……平気だよ。魘されてたらちゃんと起こしてあげる。大丈夫だから、泣かないで」

「…傍に…居てくれる……?」

「………、うん。ずっと居るよ」


小さく微笑んで偽りを口にし、ほんの少し温もりを取り戻した手を包む。
それに安堵したのか、ゆっくりと閉じられる瞼。そこから僅かに膜を張る涙を拭ってやると、弟はやっと細く寝息を立て始めた。



(ヴィンセント……)


眠りを妨げないように、そっと傍らの少年の額に手の平を置く。

死でも、逃亡でもなく、ただ単に『居なくなる』という彼の夢。
その意味を考えながら、とろとろと半端に溶かしたクリームの様な眠気を覚えた。
傍らに眠る少年に感化されたのか、その中でふと湧いた疑問がぼんやりと揺らぐ頭を支配する。


もし、自分が本当にこの世界から消えてしまったら。

その時は誰が自分という存在を思い起こしてくれるのだろう。自分の容姿、声、性格、そして分け合った思い出。その全てが、冬の氷が溶けるようにいつか失くなってしまったのなら。

それは、とても───


(………怖い、ね)


怖い。
誰もが自分を始めから居なかったように振る舞うのを見るのは。
昨日まで一緒に笑っていた人間が違う誰かと楽しそうに笑い、そしてその人の記憶の中に自分がもう居ないのは。
それはとても悲しくて、そして夢だと分かっていてもそうなってしまう事がどうしようもなく怖くなる。
隣に眠る彼のように。



「大丈夫………ずっと…一緒に居るよ…」




唇から零れた叶えられない願いは、そのまま窓を叩く灰色の雨に溶けていった。



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企画参加文。


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