黒猫と革紐。 | ナノ


タビダチ


さよなら。
私は灰色の猫を抱いたまま、小さな市営住宅に最後の挨拶をした。
さよなら、私の家。私の───

そこで、何故か胸がじわりと痛んで、鼻の奥がつんと熱くなった。


「どうかしたかい、アリス」

「う、ん……ちょっと」


声の端が震える。
決めたのに。新しい私になるって。やっと、この世界が好きになってきたんだから。
なのに、今日からもうここが私の家ではなくなると思うとどうしても溢れてくる感情を押さえることが出来なかった。
それは、ただ悲しいだけじゃない。もっとたくさんの感情が混ざり合った、まるで心の一部をここに置き忘れてしまうような気分だ。
お母さんの一件の所為でこの家は市によって取り壊され、また新しい家なり緑地なりになるらしい。私が今日この家を出れば、もう本当にここは私の場所ではなくなってしまう。
猫の首を抱いたまま、私はしばらく家を眺めて立っていた。

たっぷり十分は経っただろうか。
チェシャ猫は何を言うでもなく、私の気が済むまでにんまり笑って待ってくれていた。
私がやっと息を大きく吐いて、猫ごと軽く伸びをすると、ようやく口を開く。


「もういいのかい」

「……うん。あんまり叔父さん待たせちゃ悪いから」

「そうかい?」

「どうして疑問符なのよ」

「アリスは二時になるまでオジサンが来ないと言っていたよ」

「……も、もうすぐ二時よ」

「僕らのアリス、きみがそう言うのなら」

「………、」

見透かされた気になって、私は照れ隠しにその得体の知れないフードをぐいと口の辺りまで下ろしてやった。
前が見えないよ、とさほど困っていない調子で猫が言う。

「普段だって目が見えないほど隠れてるじゃない。あれで本当に見えてるの?」

「見えてるよ」

「正面から目が見えないのに? もしかして、足元だけ見て歩いてたの?」

「前も見えるよ。前を見ていないとアリスがどんな顔をしているか分からないからね」

「……ならいいけど」

いまいち納得がいかなかったけれど、あの帽子屋でもちゃんとお茶をカップに注げていたんだからチェシャ猫だって前が見えているんだろう、ということにしておいた。フードから手を離すとたわんでいた布がまた元にぴたりと戻る。

───相変わらず、不思議だ。
一体どうなってるのかしら。

かなり気になったけれど、本当に二時が近づいてきたので追求するのは止めておいた。実はフードの中にはずっと時間くんが居たんです、とかだったら困るし。

(時間くん、か……)

そういえば、女王さま達はあれからどうしているんだろう。
聞いてみると、猫は無言のままにんまり顔でこてんと下に顔を向けた。そこにあるのは荷物の詰まったバッグだ。
開けてみると、入れた時より少し中の荷物が膨らんで見えた。旅行鞄なんかだと行く時と帰る時でお土産が増えているから膨らんでいるのも分かるけど、このバックにはまだ何も新しい物は入れていない、はずだ。
でも、奥を探ってみると指が固いプラスチックのケースに触れた。

「………、トランプ?」

手品で使うような大判のトランプケースだった。
プラスチックのケースは蓋が透明になっているから、一番上のカードの柄がよく見える。

どこか見覚えのある、ハートのクイーンだった。


「これ……病院で見た……」

「どんな形をしているかは重要じゃない。大切なのはそこに在ることだよ、僕らのアリス」


難しく言った猫の向こうで、ぬらりとした緑の鱗の小さなトカゲがブロック塀の奥へ消えていくのが見えた気がした。
もちろん、ただのトカゲなのかもしれない。でも、今の私には違うように思えた。

きっと周りを見渡せば、見つけられるのだろう。
残酷で、冷酷で、意地悪で、でも優しくて愛しい私の友達の足跡に。

そう気付いた時───急に誰かに優しく抱き締められたような気がして、私は猫を抱えたまま後ろを振り返った。


「どうかしたかい?」

「………、」


猫の声だけが空気を震わせる。

今のは、何だろう。
少し考えて、でも途中で止めて私は笑った。
そうだ。考える必要なんてない。


「チェシャ猫、いい加減行かなきゃ。ほんとに叔父さん待たせちゃう」

「僕らのアリス、きみが望むなら」


近づいてくる車の音に向かって、私は鞄と猫を連れて歩きだした。

そこに在ることが大切だというのなら、私はただ信じればいい。
グレーのシャツに包まれた白いふわふわの手と、モスグリーンのカーディガンの袖口。
脳裏に浮かんだ二つの腕は、確かに私を送り出してくれていたのだと。

猫には見えないところで浮かべたつもりの微笑は、何故か見透かされて猫の口元にも花を咲かせていた。



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猫を連れて/真実の横顔 より


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