黒猫と革紐。 | ナノ


ウケミ


さく、さく。


「……ねえ、チェシャ猫」

さく。さくさく。

「何だい?」

「私ね、今考えたんだけど」

「そうかい」

さくっ。


「……あのね、公爵夫人って良いなあって思うのよ」

「そうかい」

「そうよ」


さく、さく。
軽快に鉄の刃が木の板を滑る。
刃を降ろすたびにさくさくと歯切れの良い音が鳴り、野菜独特の爽やかな青い匂いが弾けていく。

今日の食事当番は自分だった。
しかし任されたは良いものの、普段食べる係専門の頭ではサラダにハンバーグと汁物というありふれたものしか浮かばなかった。けれどもわざわざ本を読むには乗り気がせず、とりあえずそれを実行している身だ。
さくさくと弾ける青い匂いは現在尚も増加中。いっそのこと近くのコンビニやファミリーレストランを利用して外で食べてしまっても構わなかったのだが、今日は自分が作ると宣言した手前それは叶わなかった。
別に今日が特別な日という訳ではなく、単なるきまぐれというのが本音だ。

こんなことならお手伝いの範囲に留めておけば良かった、と後悔のため息がとめどなく零れていく。


「……食べたい時に好きなだけ食べられるの、お腹いっぱいになれるのってうらやましいわよね」

「君がそう思うならそうだろうね」

「例えばこう、ベルをちりんって鳴らすだけでご飯が出てくるのよ。きっと今日のハンバーグなんてすぐだわ」

「そうだね」

「カエル達には悪いけど、今だけなら私きっと公爵夫人と一緒にテーブルに座るわ」

「そうかい」



さく。
刻み終えた野菜をまな板から除け、温めていたフライパンにさっと油を垂らした。
ぱちぱちと油の爆ぜる音。慣れない手つきで油を回し、半刻程前に形作っておいた肉の塊を四つ離して置く。途端鼻を突くじゅうっと跳ねた油の匂い。実際に手の甲にも跳ね、鉄板がかなり熱いことが判明した。


「……こんな風に怪我もしなくて済むのに」

「アリスは料理が嫌いなのかい?」

「嫌いじゃ、ないけどっ」


嫌いではないが、作るより食べる方が断然好きだ。

油が跳ねて火傷した手の甲を濡れた布巾で拭い、唸りながらそう告げると足元に転がっていた灰色はそうかい、と答えた。


「いくら作ったって、それが自分の食べるものとは限らないじゃない」

「料理女は作っていただけだったね」

「そうよ。なら食べる方が絶対に良い」


がたんと油を警戒した距離から落としたガラスの蓋が荒っぽい音を立ててフライパンの縁に当たり、一瞬で透明な表面を曇らせた。眉をひそめる程の熱気がその瞬間だけ途切れ、ふうと息をつく。

「受け身の方がずっと楽だよ……」

「ウケミ?」

「お刺身じゃないからね」

「…そうかい」


表面上は何ともないようで、しかし確実に残念そうな表情でにんまりと笑った猫をぺしりと軽く叩く。痛いよ僕らのアリス、と呟かれた言葉を鼻息で返してフライパンを見ると、なんと赤み掛かっていた表面は見事にきつね色と化していた。
鉄板に触れていない側の筈なのに、だ。


「…あー!」

「どうしたんだい?」

「強火のまんま…もう、半分真っ黒になっちゃったよ……」

「良い匂いだね」

「…そうね。香ばし過ぎて涙が出てくるわ…」

引いていた油も切れて焦げ付いた部分を無理矢理剥がす(この工程で少なくとも表面積は十パーセント程減少した)。

がしがしとフライ返しでテフロン加工が施された表面を引っ掻く少女の姿は傍目から見ればかなり微笑ましいものに見えたが、驚くことに地面にごろりと転がる灰色のアングルからでもそれはまったく同一に見えた。



「ああもう、叔父さん達の分も真っ黒。嫌になっちゃうなあ」

「……そうかい?」

「…何で疑問形なの」

「だってアリスは、」



とても楽しそうだよ。


───次の瞬間、先程とまったく同じ動作でしかし明らかに威力が増した手の平が灰色のフードに叩きつけられたが、猫はどうして自分が叩かれたのか理解出来なかった。



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いくらでも出てくる食事。
でも彼女が満たされなかったのには訳があること、アリスはちゃんと知ってるんだね。


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