黒猫と革紐。 | ナノ


白灰カノン


追う少女はアリスではなく。

追われる少女は兎ではなく。




「……行くのかい」

「そうだよ」


現実と仮想の狭間のような、形が無い物ばかりが溢れる世界の中で、その人影はそう言って優しく笑い掛けた。

ふわふわとした二つの耳と、グレーのシャツにスラックス。
紅い瞳の影は一つ息を吸い込むと、霧散する煙のようにゆっくりとその姿を大気に滲ませていく。
混沌とした世界で自分と同じか幾分高いシルエットが不安定に揺れたかと思うと、白い耳が黒い髪へと染まり、繭を溶くように体躯が細くすらりとした少女の輪郭を辿る。陶器のように白く生気の無い肌から長い黒髪を払ったその姿は、アリスが今か今かと楽しみにしていた冬の結晶に酷似していた。



「……変えたんだね」

「アリスはまだ小さいから、小さくしたんだよ」

「そうかい」


半ば諦めたように、しかし表情には波すら立てない仕草で向かい合う灰色の猫は少女を一瞥する。
雪を冠する名を持った彼女が選んだ道は、『アリスと共に在る事』。彼女は主人公に追われる事よりも、主人公を追う事を優先したらしい。
それは猫から見れば何という反逆の仕方なのだろうと呆れるばかりであったが、首狂いや、特に現実と関わる事を望まない番人には許しがたい暴挙だったようだ。
結果として、自分はこんな所まで彼女を追う羽目になっている。
首と胴の間に隙間風を吹かせるくらいなら追う方がまだいくらかましだ。



「……アリスはどうして私たちが居ると駄目なんだろうね」



思考が余所に飛んでいた猫に、ぽつりと少女が呟く。
儚げに口端だけを僅かに上げる微笑を浮かべた少女に、対峙する灰色の影が黄ばんだ歯を見せた。
その歯列から、いかにも押し付けられたような声が漏れる。

「駄目だからだよ」

にんまりと、まるでそれ以外の感情を知らないかのように歪む口元から、言葉ほど軽くはない声が単語を繋げていく。
その様子は、説得というよりも波間に消えゆく泡沫を見ているようだった。

意味の無いものだと分かっていても気泡は漏れ出して漂い、そして広大な海に吸収される。

この場合は、少女という暗く底の見えない海に。



「……アリスは僕らが居るとたくさん痛い。オカアサンに叩かれるから」

「そうだね」


短くうなずいて、少女は言葉を肯定した。
言葉の通り、まだ幼く不安定なアリスは、自分らと不思議の国を完全にそれと認める事が出来なかったのだ。

誰にも見えない、聞こえない、触れない。
ただアリスの為に在る、アリスだけを愛する世界。

しかし、その存在理由を彼女が信じ続けるには、あまりにも現実が彼女を愛さな過ぎた。
そうなれば、いつかまた彼女が自分らを必要とする時まで、不思議の国は硬い茨に眠るしかない。首狂いも番人も、その事を承知で自分に追うように頼み込んだ。
また自分らが彼女を愛する刻は案外すぐなのかも知れないし、もう二度と来ないのかもしれなかった。


「扉の外は現実なんだよ」


もう、何度口にしたか分からない言葉が反響する。


「アリスはいつでも仮想の中で生きているの」

「変わるかもしれない。オカアサンはアリスを変えようとしているんだ」

「たとえアリスが変わっても、それはアリスの望み。行動。それを私たちは否定しないよ」


私、たち。
その中には、自分も含まれる。
にっこりと少女は笑って、こちらに一歩歩み寄った。


「君はアリスを守らなくていい」

「アリスを守るのは誰も同じだよ。住人はアリスを想って、彼女の為に存在している」

「閉じた扉が開くのはずっと後になるのに、君は平気なの」

「扉の内側でもアリスを見守ることは出来るよ」

「固執してる」

「君がね」



一問一答のような間を挟まない問答の後に、ため息をついた少女は首を振った。

ぐらり、と世界が揺らいでいく。
我ながら、此処を現実と仮想の狭間と表現したのは正解だと思った。
この世界は中間。
奥へ進めば不思議の国の住人が存在する仮想へと続いていくし、前へ進めばアリスとオカアサンが存在する現実へと続いていく。
この狭間の世界は、どちらでもないアリスの小さな思いが積み上がって出来たものだった。
本当なら、奥───仮想に生きる自分達は、現実には手が出せないはずなのに。
オカアサンが認めなかったように、アリスももう自分らを認めないだろう。
だというのに、どうして。

どうして、現実に干渉しようとするのか。



「………、」


あの二人に感化されたのかどうか知らないが、空虚な問いを繰り返すうちに自分自身も彼女に対して疑問を持ったようだ。
しかし、自分の持った疑問は裏を返すとハートの女王達とは違う方向性のものに思えた。
アリスに関わるから、というのは、建前。

それを見抜いたように白い少女は手をすっと差し伸べた。



「君は一緒に来ないの」

「僕は君のように形を変えられないからね」

「出来るでしょう?」

「人間に、という意味だよ」

「些細な事だね」



気が付くと、少女はこちらの手を掴んでいた。
冷たい、体温の感じられない指先。その指に触れられた瞬間に、世界がもう一度揺らぐ様子が見えた。
───時間くんはまた自身を悲観しているらしい。

とん、と。
掴まれた腕を払って、ため息をついた猫は細い身体を後ろへ押した。少女は驚いた様子もなく、寧ろ分かっていたような表情で後方へ倒れていく。


「……時間くんに挨拶するの、忘れてた」

「じゃあ君の所為だ」


重力が働いた先に地面は無く、そのまま溶けるように少女は大きく輪郭を揺らがせた。
境界が消える寸前の空白で、薄い唇が言葉を紡ぐ。



「また会えるよ。アリスはきっとそれを望むから」

「『ねこさんとうさぎさんは仲良し』、らしいね」

「また、会える」



もう一度言って、境界をなくした少女は完全に大気に溶け切った。
今頃は、小さなアリスに話し掛けているのかもしれない。
実態の無いトモダチとして。

それは首狂いや番人にとっては良くない事なのだろうが、あまりそうは思えなかった。
悪い事ではないだろう。
それは小さな創造主にとって、の話だが。


───『また会える』


「………、」

白い少女が残した言葉を、今のところはおとなしく甘受することにした。
戻れば、憤怒の表情で鎌を振り上げる少女とその横で苛ついたように首を振る番人が待っている。
もう少し此処に居たい、という感情は、どれによるものだか判断がつかなかった。



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青緑様へ。



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