サイカイ
『あなたにも心の仕組みがわかる!』
安っぽいキャッチコピーに、明るい蛍光色の色彩。
今まさに捨てようと丸めた新聞紙の中で踊っていた、たった一行のそれに、何故か目を奪われた。
よくある通信講座の全面広告で、上には『やさしい色鉛筆画』や『パッチワーク入門』などの大人向けの趣味の一覧がずらりと並ぶ中で興味を惹かれたのは、『やさしい心理学・初級編』だった。ゴミ箱に向かっていた足を翻し、和室の中央に出してある炬燵に裸足の足を突っ込みながら、貪るように羅列する文字を読んでいく。
書いてあったのは当然ながら心理学そのものの内容ではなく、受講にかかる日数と付いてくる教材の種類、簡単な講座の中身など。
それでも、読んでいくうちに大体の事は読み取れた。おそらく、付いてくる薄っぺらいテキストには、その道の権威者の名前と顔写真の下にこう書いてあることだろう。
───これを学び終えた頃には、簡単な他人の心理が分かるようになりますよ、などと夢物語みたいな事が、堂々と。
笑わせる。
人の心がそんな百ページも無いような薄っぺらなテキストで分かるようになど、なるものか。
例えば今自分が思っている事が一言で表わせられるか、といきなり言われたら、即答出来る人は稀だろう。お腹が空いた、とか、眠たい、などは心ではなく、本能だ。
何かをしたいと思うことは、ほとんどがそれに当てはまる。
何々をするとき、これこれこういう心理が働くので、とかいう言い回しは、実際は心理ではなくこうしたいと思う本能の事で心理ではない。
大体、自分の心も理解できていないのにどうして他人の心が分かるようになるのか。心が書物として表されるのは物語だけだ。
───それですらも、断片的なものだというのに。
急速に興味が失せて、安い文字が並ぶそれをくしゃくしゃに丸めて握り潰した。
本来の目的であったゴミ箱に半ば叩きつけるように放り込む。
本当はこうなることが分かっていたのに、わざわざ引き返してまであのくだらない広告を読んだ自分に少し呆れた。
結局、自分はまだ彼らの事に整理がついていないのだ。
あれから、もう二ヶ月も経っているというのに。
お母さんの四十九日も既に終わり、和田さん───叔父さんの家に引き取られた私は、段々と周りの環境に慣れていった。もうぎこちなく『ただいま』や『行ってきます』を言うこともなく、気が付けば俗物で溢れた普通の生活が当たり前になってきている。
転校した高校は良いところとは言えないものの、悪いところでもない。
友達だって居る。
兎ではなく、普通の生活の中に生きる人間の友達が。
時折、あれは長い夢の中の出来事ではなかったのかとすら思う事すらある。けれど、そのたびに返す波のように思い出すのだ。
突き刺さったカッターナイフを。
血に濡れた女の顔を。
そして、首だけの灰色の猫を。
『───大きなアリスも、やがてわしらの事を忘れていくのじゃろう』
意外なことに、その時に決まって思い出すのは蛇の言葉だった。
悲しそうに、けれど優しく言ってくれたその言葉。
なら、私が皆の幸福を願うわ。
そう言ったのに、願う相手はもうどこにも居ない。
この世の物ではないメロンは、悪くなる前に体内へと消えた。
私の歪みを吸ってくれるひとは、もう居ない───
ぷつっ、と音がした。
見れば、腕を引っ掻いていた爪が皮膚に食い込み、赤い液体がほんの少し染みだしている。
思い立って、それを指で掬って口に含んでみた。
広がるのはやはり鉄の味で、イチゴジャムの味はしなかった。
パン族ではないから、たとえあの時に同じ事をやったとしても、結果は同じだっただろう。
思い起こすたびに、私は気違いじみた行動を起こしては落胆する。
バラ園はやっぱりバラ園だったし、生け垣の向こうにお隣の家は無かった。空は青いままだったし、海は血で構成されていない。
狂うための要素はいくらでもこの身体に満ちているのに、きっかけの方が私を拒絶する。
錯覚でも良い。
一度だけで良いから、あの白い兎は私の目の前に現われないものか。
灰色の背の高い猫は、現われないものか。
「───それは無理だよ、僕らのアリス」
「え?」
「僕はもう首だけだからね。背は低いよ」
身体は消えてしまったし、と。
ゴミ箱にどかっと乗っかったにんまり顔は、何とも無いような顔でそういった。
驚く私には(フードで見えないが)目もくれず、猫はぽてっとゴミ箱から落ちて私の前に佇む。
いきなり過ぎて言葉が無かった。
「……ちぇしゃ、ねこ?」
「そうだよ」
当然、と言ったようにチェシャ猫が間髪入れずに即答する。
念の為、もう一度問い掛けた。
「……ホントに?錯覚じゃない?幻覚じゃない?」
「そうだよ」
「………、」
僅かな沈黙。
猫は私の思ったことが分かったかのように、にんまりと笑って口を開いた。
「君が望んだからね。アリスが居なくて首狂いがうるさかったよ」
でもまた会えてうれしいよ。
そう言って、猫は楽しそうにこちらを見た。いつもの、私にとってのいつものあの顔で。
「……チェシャ猫は心理学得意そうだよね」
「シンリガク?」
「何でもない」
そもそも、チェシャ猫は私の心が作り出したのだから、聞くことにあまり意味がないと知っていたが、何となく口を突いて出た。
でも、私の心について聞くのなら、これ以上の専門家は居ないかもしれない。
「……チェシャ猫」
「何だい?」
「んーと…その」
「お腹が空いたのかい?アリス」
「違うから」
やっぱり聞くのは止そう。
しばらくして新聞広告は燃えるゴミでなく古紙であることを思い出してそれを取り出そうとした時、何故か私の目を惹いたあの広告はゴミの波の中で見えなくなっていた。
「……あれ」
------
僕は会えてうれしいけど、君はその為に犠牲にしたものがあるみたいだね、僕らのアリス。
[戻る]