黒猫と革紐。 | ナノ



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act.6 紅目の亡霊



「───ル、ギル!」

「……え?」


ぱちん。
小気味良い音と共に、気付けば頬をはたかれていた。
小さな痛みにはっと意識を覚醒させるとそこには呆れたような色を浮かべる金と紅のオッドアイ。
───ヴィンセントだった。


「あれ……」

「ギル、もう屋敷に着いたんだよ…」

「も、もう着いたの? 早いね」

「早いね、って……」


本当に大丈夫? と最早呆れを通り越して心配そうにこちらを覗き込む金髪。違和感を感じて問うてみると、馬車で発ったあの時からいつのまにか三時間ほど経過していた。
眠りこけていたにしては生々しい記憶に鳥肌を立たせながら記憶と合わない間の出来事を聞いてみるとどうやら自分はかなり長い間魘されていたようだ。そのあまりにも酷い様子に一度馬車を止めるべきかどうかも相談していたようだが、眠っていたらしい自分はさっぱり覚えていない。
それに、おそらくその間自分はあの訳の分からない化け物に追い掛け回されていたことだろう。
思い出しただけで寒気がし、そっと自身の肩を抱く。
と、

(……あれ?)

ふわ、と指先に暖かい感触。


「……ギル、そんなにそれが気に入ったの…?」

「これ…ブレイクさんの」

「僕が起きたときにはもう掛けてあったけど…」

「へ? でもこれは……」


黒いネルの、大きなマント。
身体全体を覆うように掛けられたそれは、間違いなく白い上司からの贈り物だった。
全体にちりばめられた艶のある羽根の部分は暗い馬車内でも確かに光を返していたが、その表面はいささか擦れているような気もする。
しかし、それよりも袋の中へしまい込んだはずの物が今ここにあるという事実がどうしても引っ掛かった。
これは、確かに袋へ入れた筈なのだ。

いくら眠りこけていたとしても意識があった時の出来事であるからそれは間違いない。
乾いた菓子袋の感触も、かさりと響いた小さな音もしっかりと記憶に残っているのだから。


「…どうなってるんだろう……?」

「それは僕の方が聞きたいんだけどね」

「……えっと…実はその、」


夢を見ていたんだけど、と告げると、はあと気乗りしないような返事が返ってきた。どうやらまだ寝呆けてマントを引っ張りだし掛けたと思われているようだ。
しかし寝呆けている人間がどうすれば袋にしまってあった物を取り出せるのかと力説すると、やっと彼も事態の不可解さを理解してくれる気になったのかまじまじとマントを眺めた。
その目にはまだ信用出来なさそうな疑い深い色が差していたが、やがて思い当たる節が見つかったように口を開く。


「───そういえば」

「?」

「ハロウィンの仮装って、還ってくる亡霊から身を守るための手段だったらしいけど……」

「…それじゃあ」

「あのね…ギル、言い伝えを本気で信じないでよ」



(………亡霊)

きっと寝呆けて掛けたんだってば、とやはり呆れ顔でため息をつく弟だったが、打ち消し損ねた言葉はぐるぐると頭を回ってある仮説を構成していった。

亡霊。仮装。身を守るため。

あれはまさか、身を守るための仮装をしていなかった子供を連れていくために夢を通して亡霊が現われたとでも言うのだろうか。
そしてそれを、衣装であるこの黒い布が自分が一番頼れる者の姿を借りて救った。
確証も確信も無い───お伽噺にも程があると思うのだが。

けれど不思議と、その仮説は否定する気になれなかった。

(だってあれは……)



「…ねえ、聞いてるの? ギル」

「えっ? あ、ごめんなさい」

「まったく……着いたんだからもう帰ろうよ。荷物は後で部屋に運ばせれば良いから」

「そ、そうだね」


こくりと頷いて席を立つ。しかしその拍子にはらりと身体から落ちたマントを拾い上げようとしたら、何故かその手は阻まれてしまった。
きょとんとしてその手の先を見上げると、心なしか笑顔が怖い弟の影。


「それも。後で運ばせるから」

「え……」

「大丈夫、寒かったら僕のコート貸してあげるから。ね? 兄さん」

「……はい」


───逆らえなかった。
兄としての威厳はどうしたら身に付くのだろうかと本気で悩みたくなったが、こっそりと後ろ手で拾い上げた装飾の羽根は弟の追求から逃れて指の中でさわさわと風に揺れている。

(これくらいは、良いかな……)

何となく、あの淋しそうな紅い瞳が脳裏に浮かんでくるような気がした。
自分もいつか、あんな瞳をする時が来てしまうのだろうか。
失った主人を想い、哀惜を傷として身に刻む時が。

(……でも、ボクはそうならないために力を求めてる)

否定の言葉を否定する。あの上司から学んだことの一つだ。
リスクを無視できるだけの力を手に入れる。そのために何もかも利用する。そう告げたあの白い上司の紅い瞳は、彼のように弱い光を灯してはいなかった。

或いは彼もまた、亡霊だったのかもしれない。
主人への妄執に取り憑かれた、もう一人の。



「……後悔、なんて、」

「ギル?」

「ううん、何でもないよヴィンセント」

「そう? ……ところでギル、その手に持ってるのは…?」

「あっ、その…これはねヴィンス」

「ふぅん……?」



ひらり、と真っ黒な空に真っ黒な羽根が舞う。
翌日、訪ねた弟の部屋に手作りらしき黒い鴉の縫いぐるみを発見してしまうのだが、その黒いネルの布にかなりの見覚えがあった事は自分の胸だけにしまっておくことにした。



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