W
『───何、処…?』
声がした。どこか遠く、見えない場所から。
『いない、イナイ。何処にイるの……?』
ずるずる、と何か湿ったものを引きずるような音。それはぶつぶつと擦れた言葉を吐きながら、確実にこちらにやってきていた。
その姿も、擦れ切った声すらもはっきりとしないそれはゆっくりと距離を詰めながら、何かを探しているように足を進めている。
あれに見つかっては───駄目だ。
理由は分からないけれど、ここから逃げなければ。
ここがどこかも、夢か現つかの区別もつかないままにただそう感じるそれは、本能的に身を守るプログラムのような、絶対に逆らってはならないシグナルだった。
見回した周囲は暗く、しかし足元に気を遣わない程度には明かりが確保されている。これなら歩けるだろう。
自分が今正しい判断をしているのか否かも分からなかったが、とにかくここから離れたかった。
(………、)
そっと起き上がり、足音を忍ばせて気配とは反対方向にそろそろと歩きだす。周りは相変わらず暗い。少し気を抜けば音を立ててしまいそうだが、それよりも早鐘のような心臓の鼓動の方が煩く耳に響く。
しかし、その足が二歩と進まない内にずるりと背後の空気が揺れた。
「!……」
ひやりとする空気。耳に触れる、金属を擦り合わせたような高い雑音。
『…ミぃつけたぁ』
聞き慣れない声に振り返ったそこには、何か形容出来ないものが立って居た。
それは強いて言えば、様々なガラクタをごったに混ぜ合わせた泥のようなもの。そして近付くにつれ、段々とその姿がはっきりしてくるのが分かる。
どろどろに腐って崩れ掛けた造形、くすんだオレンジの表面。ジグザグに切り取られた口を開けたままのともすれば滑稽にも思えるその姿は醜く、手には魔女のようなぼろ布を継ぎ合わせて作った革袋が見えた。キャンディやチョコレート、子供が見たら飛び付くであろうその他雑多な菓子を詰めた袋は端が破れていて、そこからぼろぼろと菓子が軌跡をライン状に描いている。
斜め半円に切り取られた目とその奥で濁ってぎらりと光る人外の目がこちらを見据え、自然と足が後退った。
「ひっ…」
『悪戯は、イかガぁ?』
高く低く落ち着かない声音でそう言った瞬間、どんと足元に錆付いた長いものが突き刺さった。
赤錆に見える何かがべっとりとこびり付いたそれは、人の命を奪える道具。人一人腕を広げた幅よりまだ余る、歯零れした大鎌だった。
『オ菓しハ、いカガァ?』
続いた台詞と共に、カボチャの足元からやけに鮮やかな色彩のキャンディが零れ落ちる。それが自分へ向けられたものだと理解する前に、引きつった喉は必死で抵抗の言葉を紡いでいた。
けれど、目の前の異形は聴覚が無いのか何度も同じ言葉を繰り返す。
『悪戯は、イかガぁ?』
「…っ!」
気圧されて後ろに下がった足が何かを踏む。それは、赤い色をしたキャンディの包み紙だった。
どろりと踏まれた包み紙から目を侵すような真っ赤な液体が広がり、背後にするすると伸びて血色の沼を作る。半分浸かった靴の踵からシュウシュウと嫌な匂いがした。
後ろに沼、前に得体の知れない何か。
お菓子は、悪戯は。
何度も繰り返す言葉は急速に劣化しており、途切れながらばらばらと崩れていた。抵抗を塗り潰すように、言葉が音へ、音がノイズへと変わっていく。
ずる、と腐った爪が縋りつくかのようにこちらに伸ばされた。
『イた、───い…悪、戯、はイ、か……イかガ、ぁ、?』
「やっ……?!」
ずぶり、と音がした。
見れば退がった膝の下、脛までが赤い沼にどっぷりと浸かってしまっている。途端、そこから何かに引き寄せられたかのようにもう片方の足、腰、首までもが一気に沈んでいった。
響き渡る耳障りな笑い声。
始めから望んでいたように。
(───!)
ごぷ、と唇から外へ酸素が逃げていく。恐ろしくて目を開ける事が出来ないまま、赤い水を吸い込んだ服に引きずられて落ちていくのが分かった。
藻掻く手に何かが触れ、反射的にそれを掴む。
(布……?)
もはや正確な判断が出来ない頭で理解出来たのは、そこまでが限界だった。酸素の切れた口から水が流れ込む。
けれど掴んだそれは指先から肩へ纏わり付き、重たくなっていく身体を覆うように広がっていった。まともに脳へ酸素が回らなくなった所為か、為す術もなく沈んでいく様に精神が諦めてしまったのか、不思議とその一瞬だけ単純な好奇心に目を開ける力が戻る。
(…誰……?)
沈んだ水が泥のように濁っていた事や血のような色をしていた事が綺麗に抜け落ち、重い瞼を持ち上げると目の前に明かりが欠落した世界がさあっと広がる。
真っ黒に包み込むような安堵感を与えるそれには、何だか見覚えがある気がした。
(これ…は……)
『───同族殺しは、愉しいか?』
「ッ!?」
止まった思考に割り込む、凛とした声。
その瞬間、急に無くなった酸素が入ってきた。
「っ、ごほっ…げほ! はっ…」
不意打ちに驚き上手く機能しない気管。幻覚でも見ていたように髪も腕も足も濡れた形跡は見られず、身体だけがぐっしょりと濡れた感覚を覚えている。
足はしっかりと地面に触れていて、横倒しになる視界には何かが揺れていた。
咳き込みながら顔を上げると、そこには黒い衣服の端。ゆらゆらと揺れているそれのさらに上では後ろで結わえられているのか白銀の髪がさらりと流れ、人の型だと頭が認識する前にもう一度声が響く。
『失せろ。お前の居場所はもう存在しない』
黒い腕が何かを凪ぎ払うように横へ伸ばされ、その途端どろどろと辺りを漂っていた雰囲気が急に色を変えて薄くなった。
消えた、と思う前に、蜘蛛の子を散らすように残っていた残滓が晴れていく。
「誰、ですか……?」
起き上がった目の前には、相変わらず真っすぐに立っている誰かの背中。
問い掛けて長いコートに指を触れると、ゆっくりとその背中が振り返った。
(……!)
白い髪、色素の薄い肌、血のような双眸。
「…ブレイク…さん?」
振り返ったその顔は、紅目の上司そのままの造形をしていた。
背も、顔も、髪の一房も確かによく知る彼の姿。違っている所はと言うとそれは本来の彼よりかなり伸びている髪や纏った黒いコートぐらいだ。今からもう少し伸ばせば相違点はほぼゼロに近くなるかもしれない。
ただ一つ、
「…左、眼……」
『………、』
左に収まる、真っ赤な瞳。
感情の読み取れないその双眸だけが、自分の知る男と決定的に違うものだった。
あの左は、何もないからっぽの空洞であった筈だ。少なくとも自分と出会った時には既にそうだった。
だとすれば、彼は一体誰なのだろう。
知っている情報と合致しないそれに不信感を抱いていると、不意に目の前の男は口を開いた。
『……鴉の子供』
「えっ…」
低く自身を示す呼び名に僅かにたじろぐと、見下ろす紅と目が合った。その目は感情を無理矢理押し殺しているような、何かに耐えているような雰囲気を漂わせている。
(……この人)
違う、と頭がはっきりと判断した。
自分が知る上司は、決して他人に自身の腹を読ませたりしない人間の筈だ。たとえどんな状況でもそれは変わらないことを部下である自分はよく知っている。
だが目の前の男からは哀惜のような、抑えきれない程の大きな後悔の念が伝わってきていた。
そして感じる、同じ『匂い』。
誰かを失いその面影を追い続ける、自分と全く同じ鏡映しの姿がそこにはあった。
「あの…貴方は……」
『……お前も、同じか』
「え…」
『なら帰れ。私のようになりたくないなら』
くるり、黒いコートが翼のように翻る。
紡がれた言葉は、まるで苦いものを舐めたように擦れたものだった。
『帰って、忘れろ。過去の面影は自身を縛る。……帰る脚を自分の手で切り落としてしまいたくないのなら、棄ててしまえ』
「そんな…!」
『まだ追うなら、お前は全てを諦める事になる。友人も、家族も、人としての在り方も、全てだ』
私のように、と繰り返した白い髪の男は、かつんと靴底を鳴らした。
それが合図だったかのように男の足元にぽっかりと穴が広がる。不思議とその上でも男の身体は落下せずに浮いていた。
確証も無いのに、身体があの穴に飛び込めばここから出られると告げているのが分かる。
ひゅうひゅうと空気の流れる風の音。馬車で聞いていた、窓からの音だ。
強ばっていた身体に一気に安堵感が訪れる。───なのに、何故か足は動こうとしなかった。
(あそこに…落ちたら……)
何かを、忘れてしまう気がした。
それはきっと楽になれる逃げ道なのに、頭のどこかが嫌だと叫んでいる。
『帰れ。鴉の子供』
「っ……ボクは…忘れたくない、です…」
『後悔するぞ、その選択』
「構いません。……間違ってても、どんなに苦しくても…坊っちゃんを追わない事がきっとボクの後悔になるんです…!」
『………、』
もう男は何も言わなかった。こちらも膝をついたまま返答をせず、ただひゅうひゅうと下から風が流れていく。
帰れとも忘れろとも言わなくなった男は最後、一度だけこちらを肩越しに一瞥すると踵を返し前を向いた。
びゅう、と風が一層大きく唸る。
『………、お前は───』
[←前へ] [次へ→]
[戻る]