黒猫と革紐。 | ナノ



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「いきなり……何をするんですか君は」

じん、と一拍遅れて、弾かれた手が痺れたように痛む。
じろりと下から睨め上げて、しかしこちらがそれに動じない様子を見せると、彼は諦めたように強ばった身体からふっと力を抜いた。普段は到底しないような苦い表情を浮かべたこちらに思い当たる節があるのか、ブレイクは上着ごとシャツの袖を捲って見せる。
そこには、固いものに打ち付けた林檎のような、青黒い痣が布に染み込む絵具のようにじわりと広がっていた。

内出血に侵食された白い腕をなぞって、軽く、転んだ時に出来た擦り傷を誤魔化す子供のように彼は笑う。


「いやー、意外に硬かったですネェ、あれ」

「………、」

「それにしてもいつも鈍い君がよく気付いたもので。成長してくれたみたいで私は、」

「止めろ」


ぴしゃりと。その低い声が遮った時には、既に黒髪の青年は目の前で怒ったように眉を寄せて捲った腕を掴んでいる所だった。少々乱暴な所作で、しかし限りなく優しく腕に触れた青年は苦いものを無理矢理飲み込むような表情で口を開く。

「……どうして」

何かを躊躇するように一度切ったそれは、ほんの少しの間を開けてから堰を切ったように一気に流れ出た。


「どうして………何も言わないんだ?! 今回だけじゃない。お前はいつも! いつもオレに何も言わずに自分だけで、どうして放っておけば良い筈のオレの援護に回るんだ?! オレはお前がオレの為にしてくれていた事を何も知らずに…何で…言ってくれなかったんだ?!」

「………、」

「お前、は…っ」


ぎり、と色が変わるほど握り締められた腕から、流れ出すように力が抜けていった。
ぐしゃぐしゃに顔を歪めて、気付けば目の前の青年は固く目を閉じていた。まるで、零れそうになる涙を無理に瞳の内に押し留めているように。それは彼が流すべきものではない筈なのに、彼はそれを閉じた瞼にギリギリまで留めている。


「───、」


何故、とブレイクは思った。
他人の為に、自分以外の為に───何故そんな感情を抱いているのだろう。
自分には出来ない。いつだって、自分は自分だけの思惑で行動を取ってきた。彼に教えたように何もかも自分が先へ進む為の踏み台にして、それに疑問を持った事もなかった。

そして。
青年の感情を前にして、それがただの一つも揺らがない事に彼は気付いた。


「……です」

「ぇ…?」


困惑したように気の抜けた声を上げた黒髪の青年に、にこりと口元だけで笑ってみせる。


「私は…何も君の為にそんな面倒な事をしたんじゃない、と言ったんですヨ」

「じゃあ……」

どうして、と半分涙声で紡がれる言葉を無視して、ブレイクは先を続けた。


「自分の為。それ以外に私が動く理由はないでしょう? 私は自分で、自分の為だけにやったんデス。それをどうして君がとやかく言うんですカ?」

「…ブレ、イク……?」


不思議そうな表情を浮かべて、けれど同時に見放された子供のような眼差しを向ける黒髪の青年は、呆気に取られたようにぼうっと正面に立つ男を見つめた。半端に顔に現れた二つの感情の、そのどちらの表情を浮かべれば良いのか判断がつかなかった。

言葉は突き放すように冷徹なのに、それを紡いだ声音は酷く優しくあやすようなもので。ともすれば何か大切なものにでも触れるように、その白い指先がゆっくりと髪に伸ばされたから。

───自分の為に。
だから君の事情なんて知ったことではありません。



「私が何を守りたいと思っても……それは私の自由でしょう?」

「………、」


悔しかったら、私が必要ないと証明してみなさい。
そう嘯いて髪に絡んだその手は背中に回り、空いた手が子供にするように優しく頬を撫でた。くくっ、と耳元で聞こえる、自嘲めいた含み笑い。

「……君の為なんて、自惚れないで下さいヨ。いつだって君は私のものなんですから」

そのまま頬に唇を当てると、びっくりしたように見開かれた青年の瞳。途端に赤くなる頬を隠そうとする手を捕まえて、唇を同じものでそっと塞いだ。それはただ触れるだけで、ゆっくりと離れていく。
うあ、と面白いくらいに空回る青年の表情が無性に愛しく思えて、柔らかい黒髪に何度も指先を辿らせると、聞こえてくる小さな呟き。

「…オレは……ずっとお前が認めてくれてないものだと……だから……」


自分に力が無い所為で迷惑を、とギルバートがたどたどしく言い掛けた所で、


「そんな心配しなくても、今でも認めてませんから大丈夫ですヨ」

「……、え?」


きっぱりと、はたかれた腕の仕返しをするように言葉を一蹴する白い上司。
何を言いだすのやら、と口端で弧を描いて、これ見よがしにハアとため息をつく。

「未だに泣き虫が治らないような、そんなのではネェ……」

「っ?! ち、違っ…」

「じゃあそれは何だって言うんですか?」

「こっ…これはそのっ」


瞳に滲んだ透明な雫を慌てて拭いながら、これではどう転んでも負ける事を理解してしまったのか、小さく唸った彼はそのまま黙り込んで困ったように眉を寄せた。

「その……」

赤く染まった顔を伏せて、何か言いたげに唇が動くものの言葉には現れない。そんな部下のすっかり昔に戻ってしまった状態を見て、ブレイクは髪を梳く手も背中に回してくつくつと苦笑した。
珍しく感情を顕に怒ったかと思えば今度は十年前に逆戻りだ。それも全て、自分の為に怒って、そして泣いていてとどれも純粋で。

それがとても愛しいと思う自分は以前よりは随分変わったのだと気付くまで、そう掛からなかった。



「あー、もう……これじゃあ私が過保護みたいじゃないですか………」

「?」


一人がとても心配で。不安で。わざわざ彼が主人の前で自分を盾にした時には、自然と身体が動いていて。その後も最低限の隠蔽はしていた筈だったが、今回はそれに気が回らない程に自分が焦っていたのだと改めて実感した。
勿論、そんなことをこの青年の前で言うつもりは無いのだが。



「……ま、可愛い部下の為、なーんて死んでも言いませんケド」

「へ?」



───上司が建前に用意していた事後の状況報告の書類に何一つ書かれていなかった事に部下が気付いたのは、それから翌日の昼も過ぎた時になる。



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浦様へ。



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