黒猫と革紐。 | ナノ



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「───それで」

「それで?」


精神を落ち着かせようと銜えかけた煙草が、ぱしりと地面に弾かれる。

「………、」

箱ぼっしゅー、という呟きと共に何の前触れもなく上着に手を突っ込まれ、あっけなく奪い取られていくのはつい昨日卸したばかりの真新しいシガーケースだ。
スリ師も顔負けの素早い手つきでケースを強奪した金髪の少年は涼しい顔でこちらを見つめ、天使のような微笑みさえ浮かべると、笑顔のままでそれを握り潰す。


「だから、身体に悪いって言ってるだろ?」


ぐしゃっ、という革のたわむ無慈悲な音。
まだ子供の面影が残るあどけない顔立ちに、暗がりでも分かる翡翠の瞳。そのどちらを取っても目の前に立つのは紛れもなく自分の主人に違いないのだが、


「…どうしてお前が此処にいるんだ……」

「えー、だって夜中にがさごそ音がしたんだもん」


家庭内害虫かと思って、と丸めた灰褐色の紙がくるくると回る。
なるほど、確かに二人が寝静まった頃を見計らって部屋を出たのは認めよう。自分では認識していなかったが、その際に誤解を生むような音を立てたと言うのならそれもその通りだと認める。認めるが───既にアパートから二区画離れている所で普通は気付くだろう。
家庭内と名が付いているのにわざわざ彼らが二時間や三時間通勤でこちらに通ってくる訳がなく、家庭内害虫の住所はあくまで家庭内なのだから。


「……つまり始めからついてくるつもりだったんだな」

「へへ…ほら、忘れ物」


はい、と渡されたのは薄っぺらい一枚の書類だ。
その中に踊る霞んだ写真と読みにくい小さな文字にはかなり見覚えがある、というか、それはほんの数時間前に読んだ気がする。

「ソファーに置きっぱなしだったぞ?」

「………、」


とんだ郵便配達員だ。

それ以前にどうせ来るならあの少女も叩き起こして連れて来た方が身の安全は保証されるのだが、そこは自分の主人の事であるから眠ってる女の子を起こすのは気が引ける云々という理由なのだろう。自分の時は殺人技みたいなボディプレスが襲ってくる場合がほとんどなのでその理論にはいささか納得いかないが、言っても仕方のない事なのでそれについては黙っておいた。

半分が諦め、もう半分が呆れの吐息を吐き出して、ぽすっと少年の金色の髪に手の平を置く。


「ったく……オレの後ろから絶対出るなよ。後ろに居れば守れるがそれ以外だとどうなっても知らないからな」


言い終えると、オズは僅かにくすぐったそうに笑って、

「きゃー、ギルかっこいー」

「黙れ」

わざわざ宣言するまでもなくどこに居ようと身を挺するつもりだが、一応注意しておくと少年は素直に少し後ろをついてきた。とてとて、と気の抜けた足音が音の無い街に木霊する。

首都とはいえこの時間帯になるとさすがに皆家に戻っているのか、大通りを抜けても人影はほとんど見えなかった。昼は賑わう人々で溢れ返るこの街も、帳が降りた途端に中身が消えたからっぽの箱のように無機質で空虚な感覚を醸し出している。
目の前の曲がり角を折れると、最後の目撃現場まであと一区画も無い所まで来ていた。

始めの通りを真っ直ぐ、次の角を左に曲がった袋小路の奥で、と頭が書類に添付されていた地図を正確に反芻し、目の前の通りに照らし合わせる。
資料の内容、写真の特徴、地図の詳細。それらほとんど全てを記憶しておかないと、困るのは自分だ。始めはたった一枚の書類一つ満足に覚えることが出来なかったが、日々を過ごす内にいつの間にかそれが当たり前となってしまった。
部屋の家具一つ、寝室のチェストの中身一つに至るまで正確に覚えておかないと誰かが部屋へ侵入した時に物が盗られたり細工されても分からないだろう、と教えたのはやはりあの男だったが。

今は何をしているのだろうと無駄な詮索をし、紅茶片手に欠伸をしながら菓子をつまんでいるイメージだけがありありと浮かんで不覚にも苛ついた所で、

「!」

「わっ?!」


ヒュ、と何かが頭上を切り裂き、大きな音を立てて向かいの壁に突き刺さった。

粘土に沈むヘラのように固いレンガに突き立ったそれを頭が識別する前に、後ろに居た少年の後頭部を無理矢理地面に押しつける。ごん、とぶつかったような感触がしたが、構っている場合ではない。


「…痛っ……」

「打撲か首が吹っ飛ぶかだったらこっちの方がマシだろう」

「そりゃあそうだけど……少しは」


思いやりってものを、とぼやきながら立ち上がろうとしたオズの声が、不意に途中で途絶えた。

「どうした……?」

不審に思って少年の視線の先を追うと、そこには先刻飛んできた何かが深々と壁に突き刺さっている。距離と街の位置や建物の配置に気を配りながらそれに焦点を合わせると、ぼんやりと浮かんでくる歪なシルエット。


「………、」


暗がりで目が慣れてきたのか、星明かりもないのにそれは酷くはっきりと見えた。
あるいは、それ自体が淡く発光でもしているのか。


「ギル……あれ」

「………ああ」

ごくり、と傍で息を飲む音は、おそらく後ろに引き倒されたままの主人のものだろう。
ぷっくりと丸みを帯びて、細いとか華奢だとかと表現するよりもただ単に小さいと言う方が合っているように見える瑞々しい白い肌に、力なく広がる五つの指。

泥の沼に突き刺したように壁に沈んでいたのは───小さな、子供のような腕だった。



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