黒猫と革紐。 | ナノ



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息が苦しい。

呼吸という当たり前の動作が酷く厭わしく思える。


「は……」


膝を抱えたベッドの端で、ひゅうと喉が鳴った。
それは部屋に散らばる綿を吸い込んだのかもしれないし、単に掃除されない部屋の埃で呼吸器官が弱っていたのかもしれなかった。
結果的に、どちらにしても自分の所為である事に変わりはないのだけれど。

「……、げほっ…」

結局、唐突だった発作の始まりから過呼吸を起こしたのだと分かり切った判断を下し、薄暗いベッドに座り込んで何か袋を探した。
額にぬるい汗が伝い、息が詰まる感覚に身体の状況とは正反対の冷めた思考が小さく舌打ちする。
辺りを探る手が気だるい諦めと共に止まった。
こうして水から上がった魚のように不様に喘ぐ様は、なんて可笑しいのだろう。

知っていた。
甘い物を楽しそうに作る後ろ姿も、茶葉と砂糖と睨み合って首を傾げる姿も。

大好きなのに。紅い瞳の前ではにかんだように照れている彼は好きじゃない。
箱庭の外へ踏み出そうとする黒は、キライ。

そしてその全てが、憎い。



「……ギ、ル…」



以前から変わることの無い、平面のような感情。
箱庭の彼は愛しい。優しく愚かなその全てが。
けれど手を離した瞬間に、横を向いた瞬間に、それは豹変する。

役に立たなくなった駒を盤上から切り捨てるように、表と裏の平面を返すのは吐き気がする程容易く。
そしてそれは、耐え難い程甘く。

「………、」

袋も何も見つからない指先から感覚が失せた。
苦しさだけが意識を保たせ、頭が酷く痛んで揺らいでいく。



「………ヴィンセント?」


不意に、コンコンと音がした。
ドアが僅かに震えて、部屋の濁った空気を通した静かな声が響いてくる。
入室の許可も拒絶も出来ずにただぼんやりとその木板を見ていると、鈍い金の取っ手がぐるりと回る。

「……! おい、どうしたんだ!?」

開けると共に乱雑に閉められた扉が耳障りな悲鳴を上げた。駆け寄ってきた黒に肩を掴まれる。
相当強く掴まれたはずの肩には、何故か別の人間が受けた感覚を再生しているような奇妙な感覚だけがゆっくりと這った。
黒髪に映える金に、自分の溶け込みそうな淡い金髪が揺れているのが見える。


「っ、真っ青じゃないか………おい、分かるか!?」

「……、は…」


そんなの、分かるよ。
残念ながらそれは声にならず、肩を抱えられるように引き寄せられて口元に何かがあてがわれた。
ガサガサという音に、それが紙袋だということが分かる。
強いミントの匂いが鼻を突いた。


「……、けほっ…」


呼吸が平穏の欠片を取り戻そうと必死になり、指先がかたかたと不安定に震える。
しかし、不必要な酸素を吐き出すことで段々と身体が落ち着いていくのが分かった。
紙袋がぞんざいに下に落とされ、ほっとした表情の青年が半分滲んだ視界にゆらゆらと映り込む。


「もう、大丈夫か?」

「……うん」


自分より幾分か高い背を屈め、靴も脱がずにベッドに上がっている様子は少し大袈裟に思えたものの、何も言わずに腕から身体を離す。
言うだけの気力が無い、というのが本音だった。
発作が起こってから治まるまで、それなりに時間が掛かったのだ。

これで平気だというなら、そろそろ人間という一種族からの離脱を考えねばならないだろう。


「どうしたんだ一体……」

「……何でもないよ…」

「そんな訳ないだろう。エコーが妙な事を言うから不安になって来てみれば……」

薄いタオルケットを掛けられ、落ち着かせるように背中に手の平が添えられる。まるで幼い子供になったような気がして、どことなく不愉快だった。
それに、自分は彼の言う少女に何かを頼んだ覚えはない。
駒が自分の考えで動いた苛立ちと相手が優位に立つ同情に、吐き気がする。



「どうして……」

「?」



ぎり、と。
縋るように肩に指先を押し当てる。

「ヴィンス……?」

名を呼び、気遣わしげに近づいたその手からほんのりと甘い匂いがした。
見開いた眼にシーツに沈んだ鈍い金の鋏が入ってくる。

反射的にそれを取ると、触れた手を荒く振り払った。


「いっ……!?」


くすんだ金色が尾を引き、裂くような感触と音。
次いで、後を追うように白い布地に紅い影が落ちる。


「…嫌い」

「ヴィンセント……!?」

「出ていって」

「どうし…」

「煩い……!」


驚愕に染まった青年の表情に何かが騒ついて、苛立ちと共に手を掛けた。位置が反転し、関係が入れ替わる。
鈍い振動の後に、シーツから派手に埃が舞った。

「どうして…居てくれないの……」

「…や、め…ぁぐっ」

強く圧迫され、青年の口からくぐもった呻き声が漏れた。
刃先が擦った傷口に、薄い爪の先が浅く食い込む。

止まった思考が繰り返す。
自虐とも取れる、疑問の反芻。

カップから消えた甘さは、何処に行った?
それはどうして? 何の為に?

───誰の、為に?




「───、」

見れば、限度を超えた強さに黒髪の青年は完全に気を失っていた。
溶けだしてしまったように空虚な感覚は周囲を固め、部屋から音が一つずつ消えていく。


「ギルバート……」


嫌い。
あの人と居るなら。此処に居てくれないなら。


「…だから……」


此処に居て欲しい。
嫌いにさせないで欲しい。
貴方を、傷つけたくないから。

「…大好き、だから……」

問うても答えない彼に唇を寄せると、それは僅かに甘い気がした。



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亜和様へ。



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