黒猫と革紐。 | ナノ



V


───肌蹴たシャツ、半端に肩に引っ掛かった白衣。上気した頬で例の天才少年にぐったりとしなだれ掛かっている写真の自分はどうやら酷く泥酔した様子で。しかし、それだけでは説明がつかないやけに情事じみた表情は、やはり件の少年に盛られたとある薬の所為なのだろうか。

写真を前にぐるぐると高速で回る思考は、やがて数日前のある他愛もない会話をゆっくりと反芻して導きだしていた。



『───ねー、ギル、PEAって知ってる?』

『あ? PEA?』


その夜、自分は寮に部屋を借りている数人で次の日にある試験のレポートを作成していた。
苦手な科目の上自ら行った実験からデータを拾わなければならないという中々手強い科目だったのだが、そんな中であっさりと驚異的なスピードで十枚以上のレポートを纏め上げた少年が、暇だからとこちらの手伝いをしながらふと呟いたのだ。
薬学を修める身、ある程度の成分の名は覚えているがそんな略号には覚えがなく、当然興味を持った他の同輩達も息抜きがてら少年の話に耳を傾けた。
この間借りた本で見たんだけど、と続く少年の話。

『恋愛で相手の事しか見えない、っていう事あるじゃん? PEA───フェニルエチルアミンっていうんだけど、それが過剰に分泌されると「恋は盲目」とかの現象が起こるらしいよ』

『はあ…で、それが何だ』

『やだなー、決まってるじゃん』


カリカリとデータミスが疑われる箇所にシャープペンシルで丸印を書き込みながら頬杖をついた少年は、次の瞬間にっこりと年相応の笑みを浮かべながらとんでもない事をのたまった。



『面白そうだからさー、それをベースに作ってみたの。飲まない?』

『………、』


がん、と目の前が暗くなった。

そんなお伽噺みたいな事をあっさりと成し遂げる非常識さとその無駄な事にしか使わない頭脳の見事なコラボレーションに内心拍手を送りたくもなってくるが、ようは十五にも満たない少年が作り出したのは相当性質の悪い媚薬なのだ。
飲まない。飲みたくない。絶対に嫌だ。
確か、非核三原則みたいなそんな事を最低でも十回は連呼したと思う。けれどそんな事が通用するならこの学部の被害者は半数以下に減っている訳であって。

その時に不運だったのが、部屋に居たのが二人だけでなく徹夜で妙なハイテンションに陥っている同じ講座の同輩が何人か居た事だろうか。
彼らは行き詰まるレポートに見切りをつけ、不謹慎な息抜きに喜んで参加する事にしたのだ。


『っ、嫌だ! お前ら課題あるだろうが!?』

『それはその…なー?』

『あー大丈夫大丈夫。オレがやっといてあげるから』

『こんのバカ野郎ーッ!!』


ぎゃあぎゃあと喚くも、所詮は一対多数の負け試合。
あれよあれよという間に腹に何だか裏拳みたいな鈍い痛みが突き刺さり、喚く口に試験管に蓋をしただけのいかにも手作り感溢れる液体が流し込まれたのだ。

『っ……! げほ、ごほッ!?』


味の調整を無視したピリピリと舌を焼く感覚とどろりとろりと部分によって違う粘り。おそらく試験官をしばらく放置していて、上下に成分が軽く分離したのだろう。
げほがほと咳き込み屈み込むこちらを真っ先に覗き込んだ鮮やかな金髪と明るい緑の双眼は、まばゆく後光をちらつかせながら天使のようにこう言ったのだった。


『ギルのレポートもちゃんと仕上げておいてあげるからねー』

『───っ!』


そういう問題じゃない、と思わず反論したくなったが、薬の効果は容赦なく身体に現われ始めていた。
不自然に上がっていく鼓動、呼吸。
熱い頬。
身体の奥が疼くような感覚。

『う………、』

ぱたぱたと手を振る少年の指先がぐらりと視界の隅に揺らいだ途端、誰かがフラッシュを焚く白い光だけを網膜に焼き付けて自分の記憶はぷっつりと途絶えたのだった。





「───、」

改めて皺まみれになった写真を見るとその中の自分は意識を飛ばしているようで、肌蹴た衣服の奥の所々に性質の悪い悪戯を受けた形跡が見受けられた。
おそらく散々からかわれた挙げ句、ハイになっていた同輩連中にやられたのだろう。男子寮であるし薬学部には何故か女学生も講師も居ないから、多少こういった良くない遊びがあることは理解出来る。
出来るが、しかし自分がこういう事態になるとは思っていなかった。
茫然自失と写真を眺めるしか出来ない自分を余所に、紅眼の講師は淡々と語る。


「先日オズ君が落としたのを拾いましてネェ。返してあげようとも思いましたけど、何だかその気にならなくて」

「いや、その…これはアイツらが無理矢理……」


やったんだ、と言う前に、講師の取った行動は素早かった。

お前理系じゃなくて他に行くべきだろうと言われても頷ける程の速度で詰め寄った彼の動作は至極シンプルに足払いを掛けるのみ。しかし、予想もしなかった上に脊髄反射としか思えない速さでその技を掛けられた側はたまったものではない。
えい、というふざけた掛け声が似合う子供みたいな足掛けは、見事に天地を逆転させた。


「いっ…!?」

一拍遅れ、どんと背中を中心に打撃音と鈍痛が響き渡る。
見下ろす男の目は完全に笑っていなかった。


「私も出来れば穏便に済ませたいんですヨ? でも言い訳は良くないですよネェ……」

「だからそれは…っ」

言い訳じゃなく真実だと口を開こうとするも、それを見越したように顔前に突き付けられたのは例のオーダー表だ。しかも今まで障害物走にばかり目が行っていて気付かなかったが、何だか出場種目はパン食い競争やら酒飲みリレー(四人で400メートル走る間に一升瓶一本を開ける成人指定リレーだ)のアンカーやら、明らかにトラップ系種目が八割を占めていた。
種目選択に害意を感じるのは多分気の所為ではないだろう。

明らかな死刑宣告を手に、完全にどこかが吹っ飛んでしまった講師がずいと詰め寄る。


「お、前…それ、まさかもう提出……」

「努力はしましたヨォ? でもここしか空いてなくてネ」

「ってお前が仕組んだんだろうが!」


もはや立ち上がる気力も薄れ、床にべったりと背中を付けながら叫ぶ。しかしこれだけ騒がしくしても誰も来てくれない辺りがやはり自分オンリーの薬学部らしいところだろう。
君子危うきに近寄らず。
早く気が付くべきだったのだ。
しかも、詰め寄る講師の手にはオーダー以外にもう一つ何かが握られていた。

その上と下が少し分離した透明な液体には、何だか覚えがある。


「それ……おいちょっと待て!?」

「いやあ、まだまだ私も鬼にはなりきれませんよネ」


やっぱり恋人は可愛いですからー、と棒読みにのたまった彼の手に握られているのはやはりあの試薬だ。どこから手に入れたが知らないがこの変態講師の事、もしかしたらそっくり同じかそれ以上のモノを作り出したのかもしれない。
そんな事をする暇があればさっさと研究を終わらせろと叫びたいところだが、ぐっと悪夢の液体(改)が入った試験管を目の前に突き出されては言葉も詰まってしまう。

「このままだとあんまりにも可哀相ですから選ばせてあげますヨ」

───あんなに理不尽なオーダーを見せられて驚愕しない者はない。
だからあくまでもオーダーはここに足を向けさせる口実であり、始めからこの男の目的はこれだったのだろう。


「ちゃんと理由が出来るでしょう? ギルバート君」

「………、」



確かに出来るだろう、棄権する理由が。
しかし生きて還れなさそうな雰囲気を醸し出しているのはどちらも同じ。
いっそ背中を打った瞬間に気絶しておけば良かった───この後始まるであろうある意味過酷な種目選択の結果に、間違いなく音を立てて体温が下がっていった。






───体調不良で一名棄権の為、障害物走第三レースは三名で行うことになりました。


「……あーあ、ギル可哀想」

「おいオズ=ベザリウス。貴様やる気があるのか」

「ハイハイ、ちゃんと仕事するってエリオット」

「ったくギルバートの奴も体調不良なんて情けない」


翌日、絶好のイベント日和で行われたスポーツ大会。
その日は学生一名とサポート係の講師一名を除き、伝統通りの惨劇が繰り広げられたらしい。



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空海様へ



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