黒猫と革紐。 | ナノ



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「……おい、ブレイク?!」


ばん、と礼儀もへったくれもない動作で開けたとある研究室の扉の先には、この騒動の原因らしき紅目に白い髪、白衣姿の変人講師が試験管を火に掛けながらにやにやと笑っていた。自分を受け持つ講師の一人であり、この学部きっての研究者でもある頭脳の持ち主。
ちなみに、この学部が島流しにあった原因である有毒ガス流出事件は若かりし頃の彼が起こしたほろ苦い思い出(本人談)らしい。

認めたくはないが恋人でもあるその男は試薬を机に戻してこちらを向くと、軽い調子で嬉しそうに言う。


「……おやおや、君の方から会いに来てくれたのかイ?」

「そんな訳あるか! 何なんだあのオーダー表は!?」

「あーそうそう、いくら私の部屋でも学校ではちゃんと先生って呼ばないと駄目ですヨォ?」

「人の話を聞け!!」


鮮やかな色の染みが芸術的な白衣を翻し、回答が分かり切っているような言葉に謀らずも口端が曲がった。がっしゃん、と派手に手近な机へ手を叩きつけると実験中だったらしいアルコールランプが不安げに音を立てたが、こちらはそれどころではない。
下手をすると命の危機なのだ。

何故なら、現に今でも廊下の方向から『おい誰だよパンにクロロホルム入れとこうっつったの?! アレは発ガン性あるからヤバいって!』とか、『えー、だってバルマ教授が許可したぜ?』『またあの人かよ!?』とかいう何ともデンジャラスな会話が飛びかっているからだ。
さまざまな意味で危険極まりない。
しかし、目の前の男は素知らぬ顔で掻き混ぜていた試験管を置くとぱたんと入ってきた扉を閉めた。そのまま添え付きの鍵と自分で付けた南京錠の両方に鍵を差し込み、ガチャリと施錠する。


「…騒がしいですネェ」

「そういう問題じゃないだろう?! どうするんだアレは! いくらなんでも洒落にならないだろうが!!」

「ま、良いじゃないですかそんなの。どうせ後遺症が残るぐらいで今すぐ死ぬわけじゃないですしー」

「……っ!」


そんな簡単に片付けられる事か、と思わず噛み付きそうになったが、寸前で踏み止まった。
何となく、言葉の端々やこちらを見る目といったものが普段と違うような気がしたのだ。それは単に怒っているのともまた違うような、いくつかの感情が入り交じったものだ。

(………?)

何かしてしまったのかと訝しむが、特にそんな節は思い当たらなかった。
大体、ここ一ヶ月程研究が佳境に入っているという理由で講義以外にあまり顔をあわさないのだ。
時間とタイミングが重要な要素だと言ってある時は講義中に同じ研究チームの上級生に呼ばれ、自習にされたり講義自体が別の講師に変わるという事もしばしばだった。講師の寮と学生の寮は隣同士だがそちらの方にも全く帰っていない。
思えば、講義でもないのにこうして二人になるのは久々だった。

男の背後で大きな機械のランプがいくつも光って音を立て、それが今も実験中であるという事を如実に語る。不意に口を閉ざした事によって、ガチャガチャと忙しなく聞こえる音が大きさを増した気がした。


「何か…機嫌悪くないか? お前……」

「そう見えます?」

「………、」

あえて『そう見えるか』と聞いてきた辺りに何となく状況が掴めてきた気がした。
理由は知らないが、そう浅くもない付き合いから予想して今彼は酷く不機嫌であるようだ。そして、不機嫌である時の彼は何をするか分かったものではないということも。
相変わらずにこにことしながらこちらを見る彼の顔が何故か怖いのは、勘違いでも光の加減でもないだろう。


「……そんなに機嫌悪そうに見えるんですカ」

「あ、いや…その、」

「何ですか? 気になるならどうぞ言って構いませんヨ」


じり、と心なしか出口を目指して後退する足を感付かせないように相手の顔を伺い見ると、やっぱり男は笑っていた。かなり怖い、否、もはや恐ろしくすらある。


「その…な、何で怒ってるんだ……?」

そう肌を刺すような緊張に耐えかねて言ってしまった途端、まずいと直感した。
ひく、と何も持っていない男の指先が震えたからだ。

「………何で、ですカ?」

「え…」


ぴたり、と笑顔が凍り付く。
人間とは笑顔だけで相手の動きを封じることが出来るんだな、そう勝手な頭が考えた。今の状況を分かりやすく言うと、まさに蛇に睨まれて一生を終えんとする蛙だ。
そんなこちらの気分を知ってか知らずか、相手はさりげなく詰め寄りながら汚れた白衣のポケットへ手を突っ込んだ。
その口が弧を描いたまま動く。


「別に、怒ってたりしませんヨ? 私が夜通しつまらない研究に追われて限界まで睡眠時間削ってデータ纏めて打ち込んで床で寝てる間、誰と過ごそうが遊ぼうがそれは君の勝手ですし」

「………、あの」


完全に棒読みだ。
そんな中でかさりと手の中から現われたのは握られてくしゃくしゃになった一枚の写真。
スナップ写真らしき素人全開のアングルから映し出されているのは二人の人影と寮の一室らしき質素な壁、そして、

(………っ!?)



「───君が誰とじゃれつこうが、全っ然関係ありませんし怒ってませんから」



気にしないで下さい、とやっぱり棒読みのまま据わった眼の講師の手で握り潰されたその中には、霰もない格好でとある少年に戯れついている自分の姿が写っていた。



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