V
「ッ……!!」
ねばつく恐怖に囚われたまま意識が引き起こされて、ギルバートは飛び起きた。
背筋がぞわぞわと嫌な感覚を伝え、地面が抜けてしまったかのような浮遊感と落下の感覚が足の先から頭までを襲う。
ガチガチと歯を鳴らして耐えていると、すぐ傍で声が聞こえた。
「……起きたか」
「ま、すたー……っ?」
そっと主人の大きな手が頭に伸び、もう片方の手が背中をさする。
さほど体温が高くないはずの主人の手の平が確かな熱を伝え、そこからゆっくりと絡み付いていた恐怖が解けて薄れていった。
ようやく落ち着くとギルバートは自分が主人の物である大きなベッドに寝かせられており、それが従者である身では過ぎた状態だと唐突に気が付いて焦った。その向こうの椅子にはまだ染みが残っている従者服が掛けてあり、こうして寝かせてもらっていることも含め主人に手間を掛けさせてしまったらしい。
あわあわと挙動不審になりながら主人の顔を伺うと気にするなと返ってきたがそのままという訳にもいかず、ギルバートは止められた謝罪の代わりにまだ震える声でありがとうございますと感謝を伝えた。
主人はそれに対してほんの少しだけ口元を緩めると、水晶に似た静かな瞳でじっとこちらを見つめた。
「……何か、夢を見たのか」
全て知っているような声と問いだった。
かくんとうなずくと主人はシーツを半分起き上がったギルバートの膝に寄せ、上にかけた。
「水辺だったか」
「………、」
ぎゅっとかけられたシーツを握りしめ、またうなずく。今さっき落ちた穴をまた覗く再びの恐怖がちらついたが、主人の問いに答えるためと言い聞かせて押さえ込んだ。
濁った水と泥と、象牙の歯。目指していた場所は何度となく見ていたあの池だった。間近で見た影は恐ろしく、最後に何かを言われた。声は一つも聞こえなかったが、三度動いた半分の顔が記憶に塗り付けられている。
全て伝えると、いつのまにか震えていた手に主人の大きな手が重なっていた。抑えきれなかった恐怖がぽつぽつとにじみ、両手で重ねられた手に縋ると伝った涙がその上に落ちた。
ただの夢であっても恐ろしかった。
弟と錯覚してしまったあの泥と木ぎれが今にも視界の隅にちらつきそうで、怖かった。
「───今日のことは、ただ誘われただけだろう」
今までも何度か似たような事が起きていたらしい。
ありもしない池に誘われ、おかしな夢を見てうなされる。それで済んだ者と、済まなかった者。
膝に抱えられて淡々と語られる話は簡潔で決して深く踏み込まないものであり、オブラートに包んだその先の事が漏れてしまわないように気を遣われているのが分かった。
「……念の為に、今日から明後日の晩までこの部屋で過ごすといい。どこの家でも当主の間は害為す者から逃げられるように出来ている」
「でも、マスターは迷惑では……」
「何かあってからでは手遅れになる。よく眠って忘れることだ」
ぽんぽんとあやすように軽く頭を叩かれ、これで話は終わりなのだと言外に告げられた。
しかし、それでも自分を苦しめたあの影と存在しない場所が気に掛かった。
(………、)
あの池はどこにもない。そう言ったのはヴィンセントで、彼には自分が見たものは見えていなかった。自分や、これまであれを見てきた者と何が違ったのだろう。何があると、もしくは無いとあれを見てしまうのだろう。
そして、何より。
無事でなかった者達の行き着いた先は。
「あれは……何だったんですか?」
部屋から出ようとする背中に問い掛けると、素っ気ない答えが帰ってきた。
「好奇心は猫をも殺す。お前が気にすることではない」
納得がいかないまま小さくはいと答えると、不安げな様子に気付いたのか抑えた声が続けられた。
「誰でも、教えてもいないのに己を知る相手がいれば不審に思うだろう。ただ、それが長い間忘れられた者であれば気付かれた事実を喜び、より関心を引こうとする」
「………、」
「加減を知らぬ人外の者であればその行動は人にとって害になる。お前が経験したように」
───だから、要らぬ好奇心は控えた方が良い。
言葉を終えた主人はドアから出ていき、こちらが言葉を返す間もなく入れ代わりに入ってきたヴィンセントが心配した表情で駆け寄ってきた。
うっすらと涙の浮かんだ大きな眼で弟は自分に抱きついて、
「───ル、ギル!」
「……え?」
えじゃないだろ───と頭を軽くはたかれて我に返ったギルバートは傍らの小さな主人に向き直った。
金の髪の下で大きな緑の瞳が不機嫌そうな半眼になっており、頬が丸く膨れている。その表情で自分が何をしているのか思い出したギルバートは慌てて手に持っていた釣り竿を引き上げるが、すでに銀の針には食い千切られた餌の端が虚しく引っ掛かって揺れているだけだった。
「せっかくオスカー伯父さんが釣った魚は夕飯に出してやるって言ってたのに……」
「すまん、ぼーっとしてた」
「もしかして気分悪い? 避暑地とはいえ日が射してるし」
竿を預かった方が良いかと聞かれたが、首を振って針に餌を付け直し、また水面に垂らした。
もう何度目か忘れたがたまには羽目を外すべきだというオスカーの言葉により訪れた避暑地は深い湖を抱える別荘の一つで、釣糸の先の湖の中央辺りではオスカーに連れられたアリスが意気揚々とボート遊びにいそしんでいた。たまに跳ねる魚と風を切るボートが気に入ったらしく、時折こちらに呼び掛けながら彼女は楽しそうにオールを振り回している。
自分も誘われたが何故だか湖に良い印象が持てず、渋っていた所を主人が釣りに誘ったのだ。
そして釣糸を垂らすうち、何故そんなに訪れたこともないのに嫌だと感じたのかと考え耽って魚に逃げられてしまった。
(……何かあった気がするんだが)
ナイトレイにいた時も二度ほど水辺を訪れた事があったが、その時はヴィンセントに誘われて森の方にばかり行って水に触れるのはおろかまともに波の音を聞けた試しもない。となればそれよりも前の事になるが、それを思い出せたのなら記憶喪失で苦労はしていないだろう。
結局よく分からないまま吸い込まれそうに深い水面を眺めていると、よく太った魚が餌には見向きもせずにさっと過ぎていった。
思えば、こうして透明な水の中を泳ぐ魚を見るのは初めてかもしれない。もっと濁った水なら見たことがあるのだけれど。
(……ん?)
濁った水。まともに水辺を訪れたことのないはずの自分が抱くには妙な感想だった。けれどぼんやりと眼で魚を追うと潜った魚が湖底の泥を跳ね上げて濁水を作っており、それがどこか懐かしく思えた。
───『……忘れ……こと…だ』
霧がかった記憶を必死で探していると遮るように蘇ってくる誰かの声。
眼下で濁った水を泳いでいた魚が戻ってくる。手を伸ばせば届きそうなほど近くに、興味をこちらに寄せるように。
───『……は、……す』
(……何を言われたんだ?)
餌には見向きもしなかったくせに、こちらの影に向かって近づいてきていた魚が目の前で跳ねた。跳ねた冷たい水飛沫が頬を濡らす。
それなりに大きな魚だったので隣で主人が驚いていたようだが、何と言っているのかまでは意識できなかった。
それよりも覚えのある水の感触が気になったのだ。
知っている。頬に跳ね、足を絡めた水の感覚。水と、泥と、あとは。
一度遮られた所為か、余計に何かがある気がしてならなかった。
水が揺れ、舞い上がった泥が沈んでいく。不鮮明な記憶を探りながらそれらを眺めて、
───『好奇心は、猫をも殺す』
低くはっきりと響いた声が自らへの忠告だったと気付いた時には既に遅く、水の中から揺らめく日の光を眺めていた。
弾ける泡と絡み付く泥の感覚。
水底では、記憶の中の影と同じ横倒しの月が薄く笑っていた。
あの時と同じように、黄ばんだ象牙の歯を並べて。
『 お い で 』
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