黒猫と革紐。 | ナノ



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「………やられた」


手に取った、一枚のオーダー表。
オーダーと言ってもそれはレストランの注文書ではなく、競技に出る選手の名を列ねたスポーツの試合で使うものだ。

思えば最初から疑うべきだった。
どうして、あの変態講師が今回に限っていつもは面倒がるイベントに興味を示していたのか。どうしていつもは任せ切りでほったらかしの講座にわざわざやってきて参加種目の調整など行ったのか。

ぐしゃりと握り締めた紙の上から三番目、判子で押された自分の名。
答えはここにあったのだ。



障害物走走者、ギルバート=ナイトレイ。



薬学部、実験と称せば何が起きても不思議ではない大学構内。
陽も寝呆ける早朝一番、とある講師に向けての悲痛な呪咀が高らかに響き渡った。

「あんの───変態講師…ッ!!」






薬学部は広い大学構内でも隅の隅、北側の日当たりの悪い場所にひっそりと位置している地上四階建てのやけに低い建物だ。

理由は日の光を嫌う薬品が多々あるのでそれらの品質に影響を及ぼさないため───と表向きにはなっているが、実の所は薬学部は(色々な意味で)変態の巣窟なので実験台にされたくなかったらくれぐれも近づかないようにという何とも教訓めいたものだとも、以前一人の学生の調合ミスにより有毒性のガスが流出して危うく死者を出しかけて島流しにあったとも言われている。

つまり、一般人にとってここは日夜危ない実験が繰り返される危険地帯に他ならないのだ。



「……ったく…」

───失礼な話だ、と身分上は薬学部に所属する学生ギルバート=ナイトレイは思う。
外部の人間に対してもそんな扱いなのだから、入って二年目、講座未定の新米達が日々どんな悲惨な目に逢っていることか彼らには想像もつかないだろう。

廊下を歩けば靴底が溶けるし、講義で席に着けば必ず誰かが意味深な呻きを上げて倒れ運ばれる。それが帰ってくる頃には爪が異常に長かったり髪の色が豹変していたり、そんな事がもう日常茶飯事だと言ったら間違いなく文学部の連中は卒倒するに違いない。
しかもこんな状況を生み出している上級生(と講師)達のおかげで恨みを持った下級生は確実に自分が上級生となった時に同じ事を繰り返していくので、結局この学部に明るい光は差しそうにないのだ。

そんな事を悶々と考えながら講義の為に廊下を歩いていると、前方にちょいちょいと手招きする不審な影が視界に入った。


「…ギルー」

「?」

あからさまに警戒しながら近づくと、そこに立っていたのは鮮やかな金髪に幼い顔付き、外部からはアインシュタインの再来などと言われている飛び級組の天才少年(もっとも彼の頭脳は今現在悪戯にしか使われていない)だった。
彼は楽しそうな事を見付けたいたずらっ子みたいな表情で顔を寄せると、ぼそぼそと語る。


「ギル、お前………」

「へ? 何だオズ」

「…に……る…って?」

「? 悪い、よく聞こえな───」

「障害物走に出るんだって!?」

「〜っ!」

耳元で思い切り叫ばれ、キィンと余波のような耳鳴りが木霊する。
が、それより酷かったのは周囲の反応だった。

ざわっ、と上級生も下級生も一斉にこちらを振り向き、下級生は同情するような眼差し、上級生はあからさまな好奇の眼差しをこちらに向ける。
にやにやと笑う上級生達はその場で何やら怪しげな相談を始め、そしてそんな上級生達の猫だの尻尾だのといった不穏なワードを連発する様を見た何人かの下級生は何とも曖昧な表情でそそくさと退散していった。
しまったと全身で後悔した所で、極め付けとばかりにぼそりと聞こえる通行人らしき上級生の一言。


「…頑張れよな」

「あの、ちょっ───!?」

もはや大きすぎる周囲の喧騒で誰が言ったのかも分からないままに、羊を投げ込まれた狼の群れのような視線ばかりがギラギラとこちらに突き刺さった。


「っ、オズ!」

「えー、だってギルが聞こえないって言ったんだろ?」

「確かに言ったがな、何もあんな大きな声で叫ばなくても聞こえただろう!?」

「あーはいはい次から気を付けるって」


まあまあと適当に流す少年だったが、その笑みに得体の知れない黒い影がぴったりと寄り添っていたのは錯覚ではないだろう。
ようするに、確信犯だ。


───毎年この時期、そして明日薬学部で行われるスポーツ大会。

普段内にこもりきりの学生達もスポーツによって身体を動かす事で健康を保てるようにという趣旨だが、先に述べた薬学部の特性から分かるように実際はそんな生易しいものではない。
パン食い競争や障害物走など、やけにトラップ系の種目が多いこの大会では毎年棄権者が続出し、勇気があるというより最早無謀な参加者にはもれなくなんらかの被害が待っているのだ。

例を挙げれば、パン食い競争のパンを食べた途端にハズレパンに当たりばったりと失神したりするのはまだましな方。
頭によく分からない耳が生えたり尻尾が生えたりとその被害のバリエーションには事欠かない上、挙げ句の果てにその効果は作った本人を捜し当てて解毒剤を貰わない限り講師ですら解毒出来ないと噂される高難易度と面白さ優先の下手物薬ばかりときている。
つまり最低でも一ヶ月は奇妙な髪型や爪が構内に大量発生する羽目になるのだ。

大会実行委員長ならびに準備、サポート担当者はやっぱり上級生(しかも自分独自の研究、実験室を持つ無駄にレベルの高い生徒ばかり)と暇を持て余した講師陣で占められ、そしてまさにその一人である天才少年は閉口するこちらの肩にぽんと手を置いて微笑む。


「そうそう、オレも一部屋借りてるから今回準備係なんだよね。障害物走の担当にしてもらったから」

「………、」




にっこりというよりはニヤリというニュアンスが限りなく合う爽やかに黒い笑み。
とりあえず、周りは全員敵らしいという事実だけが胸に突き刺さった。


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