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ふと呼ばれた気がして、ギルバートは足を止めた。
「……?」
いつもと特に代わりの無いように見える庭園。手入れされた低木に森、ずっと奥に見える池。
その時は主人からの用事があり、そのまま通り過ぎてしまったのだけど。
(……あ、また居る……)
その次の日から同じ場所を通るたびに足の先に何かがつっかかるような感覚を覚えて立ち止まるようになり、四日ほど経ったある時から森の向こうに見える池に誰かの影を見るようになった。
自分よりも高く、少年のようにも少女のようにも見える影。まるで自分のことを待っているかのように池のほとりで立ち止まったまま、来る日も来る日もそこに居る。
しかし特に森に入る者は珍しくないため、それから七日ほどは声をかけることもなく通る際にちらりと見るだけに終わっていた。
ただ一つ気になっていたのは、一緒に居たはずのヴィンセントが自分の言う影の存在に全く気が付かなかったこと。
普段は気配に聡い弟なだけに奇妙に思ったが、離れた森の中のさらに奥に少し見えるだけの池を示しているのだから仕方ないだろうと思い、ギルバートはそれからヴィンセントに言うのを止めた。
思えば、日に何度か通うその度に池が目に入るというのも奇妙な話だったのかもしれない。ただでさえ廊下から離れた森のさらに奥など余程気にしていなければ見えないはずだ。
そう不思議に思ったが行動を止めるほどの理由でもなく、視界の片隅で水場を眺める日は続いた。
そんな日々が変化したのは、一人でまた池を眺めている時にシャルロットに出会ってからだった。
普段の通り高く髪を纏めた彼女は、こちらが気付いた時にはドレスの裾を握って眉間に皺を寄せていた。
「ちょっと、何やってるのよ」
「え? ……あ、邪魔ですよね、ごめんなさい……」
「じゃなくて」
ぴしゃりと彼女は言うと、強引に池を眺めていたこちらの頬を両手で挟んで視線を外させた。
鼻と鼻が触れそうなほど近くに相手の不機嫌そうな顔が見え、突然の出来事に身が竦む。
「ふぇ、あ、あの……?」
「止めなさい。私達はただでさえ人から外れて異世に近いの。似た者同士は魅入られやすいのよ」
「……?」
「……えーっと、よく分かんないものに近づくなって事!」
それだけ言うと、ぎゅむっと両頬を手の平で押さえられ慌てるこちらの手を引いてシャルロットは無理矢理池から自分を遠ざけた。
はっと気付く違和感。
(……あれ?)
自分は、いつから、あんなに池の近くに居たのだろう。
あんなに───森に隠れていた池を一回り見渡せるほどに。
ずるずるとシャルロットに引きずられて土についた足の轍の向こうで、顔の見えない影がこちらを向いていた。
それから、言い付けに従って出来るだけ池を見ないように通り過ぎる日が続いた。屋敷の中でも主要な廊下で主人の部屋に続く道でもあるので通らないということは出来ずにいたが、それでも何とか池を意識の外に追いやろうと前だけを見るように努めた。
そして、その甲斐あって池と人影の事などすっかり忘れ去っていたある日の夕暮れ時。
「あ、大鴉……」
「え?」
ばさばさと大きな羽音を立てた鳥を差した弟にひかれ、ギルバートは廊下から外を眺めた。
そのまま何の気なしに目線を下に落として、
「ッ、」
目が合った。
庭の向こう、森の奥の池の人影と。
人影は相変わらず池のほとりに立ち、何をするでもなくたたずんでいた。けれど、目が合ったと意識した途端にゆっくりと動いた。
泥の中から引きずるように足を動かして、こちらに近づいてくるように見える。
(あ……)
「兄さん……?」
「は…やく行こう、ヴィンス」
「うん、良いけど……顔色悪いよ……?」
(今まで何もなかったのに、どうして……?)
足早に廊下を進むうちにシャルロットの警告が蘇り、ギルバートはようやくあれが人ではないものだったのだと気付かされた。
意識して初めて背筋に汚れた油を流されたような嫌な感覚を覚え、背中に目が付いたように背後から追ってくる何かの気配がじくじくと響いて感じ取れる気がした。
ずるり。
足を引きずって、それはゆっくりと池から離れて近づいてくる。
ずるり。
黒く所々が掛けた不完全な身体からはボタボタと泥の尾が引いて、空洞のような目と口だけがぽっかりと開いている。指が崩れた手が伸び、逃げようとする自分の肩を───
(嫌だ、怖い……!)
そんなイメージが脳裏に浮かび、汗ばんだ手で弟の手を握ったギルバートは後ろを振り返らないようにしながら主人の部屋まで急ぎ足で逃げた。
ドンドンと小さな手を打ち付け、ドアの奥から落ち着いたいつもの声が入室を許可したのとほとんど同時に部屋に転がり込む。
「……どうした」
「ギルバート、どうしたんだい? そんなに慌てて」
部屋の中には当然のように主人の友人のジャックが居て、尋常ではない自分の行動に主人と彼の二人分の問い掛けが返ってきた。
「急に廊下からギルが走りだして……」
「蜂にでも遇ったのかい?」
「ううん、僕が鳥を指してから急に……」
ぜえはあと荒い息で立ち尽くす自分の代わりにヴィンセントが答えるが、人影が見えなかったらしい彼の答えが自分の見たものを表せるはずもない。
当然その答えだけでは自分が走った理由にはならず、三人は自分の息が整うのを待った。
「す、みません、マスター」
「大丈夫か」
「はい、もう……」
ヴィンセントに背中をさすられ、切れ切れの息を整えてギルバートは自分が見たものを三人に伝えようとした。
「廊下の、いえ、庭の池から……」
誰かが、と続けようとして、
「え?」
弟とジャックの疑問の声が完全に重なった。
ただ一人、主人だけが端正な顔を難しそうに歪めている。
「池って、どこかな? あの噴水のことかい?」
「……え?」
「池って、もしかして前に兄さんが言ってた……?」
「うん、廊下から見える森の奥の……」
不思議そうな顔をして、ヴィンセントが先を遮った。
「庭の森の奥に池なんてないよ」
告げられた言葉の意味が分からず茫然とするこちらに、弟は確かに以前自分に言われた後見に行ったのだから間違いないと心配そうに付け足した。
森の奥に池などない。
人影が見えないという話ではなく、前提が違った。
では、あれは、あの場所は。
一体なんだというのだろうか。
(ボクは今までずっと……何を……)
追い打ちを掛けるように金の三つ編みが目の前で揺れ、心配して歩み寄ったジャックの表情が何かに気が付いたように変わった。
「肩に泥が付いてるよ?」
───手形みたいだ。
覚えているのはそこまでだった。
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