黒猫と革紐。 | ナノ



V


布は、たくさんの糸を絡ませて編むことにより生まれた物だ。
布地が切断される時、その断面からは大量の糸という布を構成していた物が現れる。これは他の物にも当てはまることで、例えば林檎を切った時、切り口にはその林檎を構成している隣り合ったたくさんの物質の断面が見えている。
───それがもし、チェインによって作られた空間にも当てはまるとしたら。

それならば、ここから出ることが出来るかもしれない。


「……原理は大体分かったが、それが本当に上手くいくのか?」

「これは賭けだと言ったでしょう? 残念ながら、断言は出来ませんネ」


叩き込んだはずの蹴りをどこに隠し持っていたのか分厚いチェス盤で受け止められ、結果として足を痛めたギルバートは不機嫌な表情を崩さないままブレイクの話に耳を傾けていた。
今居るのはかつての山の頂上。話を聞いているうちに裾野は海に飲まれていき、残ったのは小さなベッド程の大きさしかない僅かばかりの陸地だった。
大の男二人でぴったりと肩を寄せ、子供のように作戦会議をする。

要するにこちらの世界とアヴィスが表と裏に近い関係であることから幾つかの似通った世界同士は布のように寄り合わさっているのだと仮定し、空間の壁を斬って作った断面から隣り合った別の世界への糸口を掴むというのがブレイクの話だった。
確かにこの仮定が成立すればイカレ帽子屋の能力で壁を斬って断面を作り、現れる複数の空間の中からアヴィスか元の世界、要するに鴉が認識出来る世界を能力で引っ張り出せる可能性がある。


「さっきは私達単体の力で抜け出そうとしていましたが、協力すれば幾らか勝算はあるでしょう」

「だが、もし鴉が道を造れなかったら……」

「その時はもう、どうなるか。別の場所に飛ばされるか、もしくは衝撃に耐えられずにバラバラになるかもしれませんネェ?」

何故か楽しそうに言ってのけたブレイクの言葉にぞっと背筋に悪寒が走ったギルバートは顔をしかめ、危ない賭けだと呟く。

「お前にレイズするよりも高くつくな」

「失礼な。そんなに分の悪い賭けでもないですヨ」


(……無理しやがって)

笑みを浮かべたブレイクの表情はどこか固く、座った今の体勢でも傷の痛みが響いているのが伺えた。
ここでブレイクの案を受け入れるか、別の案を考え出すのか。仮定はあくまでも仮定であり、多少信じられる要素があったとしてもブレイクの言った話が本当に正しいのかはやってみるまで分からない。それはブレイク自身にも分かっているようで、話の端々にらしくない気弱な表現がちらついていた。
しかし、どちらにしろ時間はもうあまり残されていないのだ。
今立っているこの場所が最後の陸地。残りは全て酸の海に沈んでしまっており、行動を起こすなら今しかない。でなければここで他の職員達と同じ末路を辿るかだ。

(………、そんな事をするぐらいなら、派手に賭けて摩ってやるさ)

ちらり、自分の左手に目をやってからギルバートは喉が焼けるのも構わず大きく息を吸った。最後の拠り所であった残りの瓦礫もついに限界を迎えたのか、びしびしと罅が入る音がする。
その音に掻き消されないよう、ほとんど叫ぶような声でギルバートは言った。


「……その賭け、 乗ってやる」


───叫ぶと同時に、足元から吸い込まれる落下の感覚が身体全体を襲った。
子供の背丈の半分もない短距離の落下。当然のごとく着地についた足が嫌な音を立てて酸に焼かれ、ぐっと歯を食い縛る。

「ッ、ぐ…!」

「頼みましたヨ、ギルバート君!」

ガン、と沈んでいく瓦礫を踏み台にして左足で踏み切り、白い残像を残して飛び上がった上司が最後まで手放さなかった仕込み杖を抜いた。
壁との物理的な距離を無視して放った剣撃が壁を蝕み、ブレイクの予想通りにあれだけ試みても壊れなかった壁に呆気なく長い傷痕が走る。
開いた傷の奥から空間同士の間とでも言えばいいのか、光も色も何もない場所とそうでない場所とが混じりあった奇妙なマーブル模様が覗いていた。

(こっちの予想も当たっててくれよ……!)

足の痛みや一度チェインを喚び出した為に万全でない体調の事を頭から追い出し、漆黒の姿だけに集中して左手を高く掲げる。
浮かぶのはたくさんのものの中からたった一つを選び出すイメージ。
それは日だまりの笑顔を浮かべ、金色の髪をした悪戯好きな翡翠。傍らには焦げ茶に赤目の大食漢。そして、

「!」

手癖の悪い後一人、と思い浮かべた所で、耳障りな鴉の鳴き声が響いた。


「こっちだ!ブレイク!!」


大声で叫び、大きく手を伸ばす。
ぐんと引き込まれる感覚の中で確かに掴んだ互いの手の感触を最後に、二人分の視界が黒い羽根に覆い隠され、白く弾けた。


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