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「……もう足場も無くなってきたな。ここも後どれだけ保つんだか」
既に山の半分以上が酸の海に沈み、残った僅かばかりの瓦礫も大分脆くなった頃、ギルバートはそう呟いて眼下の惨状を見下ろした。
先程足場にした瓦礫はかなり薄くなっており、この場所からでも自分が不用意に開けた穴がはっきりと見える。周囲の空気も下の影響か息を吸うごとにピリピリと喉を焼くようになっており、この半刻ばかりでかなり声が掠れてしまっているのをギルバートは感じていた。
と、そんな絶望的な状況を余所に傍らから呑気な声が上がる。
「あーあ、君があそこでカードを落とさなければもう一勝負できたのにナァ」
「黙れ。これ以上身ぐるみ剥がれてたまるか。……人が目を逸らしていたのに」
ブレイクの言葉にギルバートは苛々と言葉を返し、散々装飾を剥がされた上着を掻き寄せて最後の一本になった煙草に火を点けた。
「遠慮なく剥がしやがって……危うく身まで切るとこだったんだからな」
「あはは、だってしっかり縫われてましたから刃物じゃないと取れなかったんですヨォ」
ポーカーによって手に入れた上着の釦をチャラチャラとこれ見よがしに玩び、ブレイクが言う。
先刻見付けてきたチェスセットが欠けていたので代わりにギルバートが下で探してきたトランプで単純なポーカーをすることになったのだが、興じる前と後で二人の状況は一変していた。
安易にチップがわりに互いの服の釦やカフスを賭けた勝負を提案したのが悲劇の始まりで、誤ってギルバートがトランプのカードを酸の海に落としてお開きになるまで続いたのは何かが取り憑いているとしか思えないブレイクの高いベットとレイズの嵐。結局毎回気後れして降りるかしぶしぶコールを繰り返すはめになり、負けがこんだギルバートに残ったのは散々釦やカフス、挙げ句には上着さえも取られそうになって途方に暮れる結末と思わぬ臨時収入に口元を綻ばせるブレイクの姿だった。
が、振り返ってみると開けられたブレイクの手札はそう強いものではなく、要はこちらの心理的な不安を煽って勝負から降りさせていただけであったのだが、それでも意を決してギルバートが勝負に出る時には必ず相手にストレート以上の手札が揃っていたというのは少々怪しい展開である。こうして勝負を終えた今ギルバートがひしひしと感じたのは、心理戦が絡むゲームは自分には向いていないということだった。
無論、酸の海に『誤って』トランプを落としたのは自分の浅はかさを後悔したギルバートの最後の手段である。
「いやあ、流石に貴族様は違いますねえ。このコートの釦、ほとんど銀でしょう?」
あはははは、と器用に釦でジャグリングを始めたブレイクに煙草を握り潰したギルバートが恨みがましく呟く。
「……いつか下着一丁にしてやる」
「おや、色気のない誘い方ですねえ」
「そういう意味じゃない!」
「あーハイハイ、分かってますヨ。素直じゃないんですから君は」
続けてからかうと掠れた喉も構わずに違うと叫んだギルバートを軽くいなし、ブレイクは布を巻かれた足にそっと触れて気取られないように嘆息した。
酸で焼かれた右足は立ち上がるぐらいなら出来そうだが、まだそれ以上の運動は無理そうだった。回復を待つと言って遊びに興じていたが、思ったよりも自分の身体は休息を必要としていたらしい。
それに何より、一度鴉を喚び出したギルバートにも多少薄れたとはいえまだ疲労の色が見え隠れしていた。
本人は隠しているつもりだろうが、ブレイク程ではないとはいえギルバートも自らのチェインを使えば他の契約者より格段に消耗してしまう。ナイトレイ家で長年誰との契約も認めなかったチェインだけあり、その力は強大であると引き換えに契約者への負担も大きかった。
(休息を取ってから小一時間か。これだけ待っても動きがないとは……)
普通に考えて、まだパンドラにこのチェインが居るのなら他の契約者達に倒されるか、または四大公が出張ることで事態に何かしらの動きがあるはずだ。ナイトレイ家の次期当主であるギルバートがチェインに飲まれたとなれば、当然事態はパンドラの職員だけでなく各々の家にまで掛かってくる。当人にその自覚は無くともその肩書きだけでナイトレイを除く三家はナイトレイに貸しを作ろうと盟約の影で独自に動くだろうし、何よりギルバートの主人であるあの少年が黙っている訳がない。
けれど、こうして何の動きも無いということはこのチェインがパンドラの敷地内から逃げ出したか、あるいは自力でアヴィスに戻ったかの二択しか考えられなかった。
黒うさぎ、もといアリスがこちらの世界に来たすぐ後に彼女の力の影響か契約者が居ないチェインが道を開いて自分らを襲うという事件があったが、黒うさぎの力を抜きにしても自分が白騎士に契約を持ちかけられた前例がある以上、チェインのいくらかはある程度アヴィスとこちらを行き来出来ると仮定して良いのだろう。
(どちらにしろ、厄介な事に代わりはないか……あるいは何か、こちらから突破口を見付けない限りはこのまま……)
「……い、…おい! ブレイク?!」
「ハイ?」
───考え事に耽っていた所為か、ブレイクは目の前でこちらに向かって呼び掛けるギルバートに気付かなかった。
返事をすると怪訝な顔していたギルバートが安心したように強張っていた表情を和らげる。
「大丈夫か? 急に黙り込むから傷が悪化したのかと……」
「そんなに心配しなくても大丈夫ですヨ。案外しぶといですから」
「お前の大丈夫は信用出来ない」
「あ、酷い」
肩を竦めて相手の方を見ると、ギルバートはすっかり貧相になってしまった上着を寄せるようにほつれた端を握りしめていた。釦を取ってしまったので前が閉じられないのが原因だが、他にも釦を取る際に面倒になり、剣を使って半ば無理矢理剥いだので釦が付いていた辺りは酷い有り様になっている。
特に最初の方は加減が分からずに派手に裂いたおかげで布地が切り口からほつれ、糸や繊維が何本も飛び出ていた。
───そこで、ブレイクはふと何か単純な事が頭につっかえるのを感じた。
(……ん?)
糸。繊維。元は、一つだったもの。
否、一つのものを作っていたもの。
「ギルバート君」
「あ?」
視線に気付いたのか、ギルバートは誰の所為だと不機嫌そうにブレイクを睨む。
だが、ブレイクはそれを綺麗に無視して突然ギルバートに飛び掛かった。
ごんっ! と申し訳程度に残った瓦礫に頭をぶつける音と呻き声が木霊する。
馬乗りになったまま動かないブレイク対し、ギルバートは突然の行動に驚いて目を見開いた。
「なっ…げほっ! お前、自棄にでもなったのか?!」
大量に息を吸い込んだので酸がピリピリと喉を焼くが、そんな些末事はどうでもいい。
何をどうしたらこうした行動に出られるのか理解出来ないが、上着に手を掛けてまじまじと凝視した体勢で上司は動きを止めていた。何か上着に付いているのか、または今まで自分が居た場所に何かが落ちてきたのかと自分の服や周囲を見回しても該当するような物は無く、かえって余計に混乱してきたギルバートは拘束から抜け出すべく襟を掴んでいる手を解こうともがいた。が、思いの外がっちりと握られた手が外れない。
さらにぶつけた頭や喉の痛みを思い出して段々と苛々してきたギルバートはとうとう膝でブレイクを蹴り上げようとして───そこではたと思い止まった。
まさか、今度こそ傷が悪化したのではないか。
急に心配になってきて、ギルバートは下からブレイクの顔を見上げた。
「……ブレイク…?」
呼び掛けに答えはない。
だが、確かにギルバートはブレイクが何かをぼそぼそと呟いているのを聞いた。
「おい、大丈───」
「………、れ、だ…」
「?」
声が小さくていまいち聞き取れない。が、気になって耳を澄ますと聞こえてきたのは飛び上がりそうな大音声だった。
「───これですよ、ギルバート君!」
「〜っ!?」
キィン、と耳を打った大音声。
何ともなかったのだと判明し、ついに吹っ切れたギルバートは反射的に眼前の変人に蹴りを叩き込んだ。
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