黒猫と革紐。 | ナノ



T


act.1 残像は記憶と溶けた


「───がッ!!」


ブレイク、と呼ばれて反応するのに少しかかった。

その『少し』は時間にすればほんの一秒を細切れにした一欠片。普段なら取るに足らない、小さな小さなロスの筈、だった。
だが、刹那が何度も交差するこの場所ではその少しが十分に足元を掬う要因になる。結局、遅れが予定していた足の回転を一呼吸ずらし、背後からの衝撃に対応できなかった。
ゴッ! と風を切った巨大な爪と、後を引くように身体から飛んだ赤い飛沫。
受け流しにすら失敗し、向かい来る黒い空と地面が逆さまに見える。

(ああ……)

視界いっぱいに星を散りばめた天を覆う漆黒は凛と澄んで美しく、こんな時でさえなければ絵筆をとって残したいと思える程だ。
無論それが叶う筈もなく、一定以上の速度に乗っては身を捻ることすら出来やしない。舌を噛まないよう歯を噛み締めたと同時に、身体を無理矢理ずらすような痛みが着地した肩を起点に身体全体を貫いた。

「つっ……」

上下が反転した視界の隅で追撃者を一蹴した異界の獣が依り代の人間ごと闇に溶けていく。残されたのは石畳に刻まれた爪の跡と弾き飛ばされた自分、そして後一人。
吹っ飛ばされる原因になったあの忠告と同じ切迫した中音域が届く。


「───おい、大丈夫か!?」

「………、ええ」

皮肉を混ぜる暇もなく、硝煙を纏った黒いコートの裾を風にはためかせてその一人が駆け寄ってきた。
夜に溶ける黒い髪に浮かび上がる金の双眸。青年、ギルバート=ナイトレイの役割は援護だったが、見事なまでに彼の銃の火薬は減っていないようだった。

(……失敗だな)

ため息混じりに地面に転がったまま周囲を見回し、青年の手にぶら下がる銃に目をやる。
速度と剣技で決着を付ける戦闘は向いていないと判断して自分一人で動いたのだが、結果を鑑みると跳弾のリスクを抱えてでも応戦してもらった方が良かったのかもしれなかった。分かり切ったこととはいえ、仕留めるのが一夜遅れるごとに被害者は増えていくのだから。
書類で言えばたかだか欄の桁が一つ増えるだけだが、汚れた爪で引き裂かれた幾多の人生の重みはそれぞれ替えが利かない。それを知る自分にとって唯一の救いはまだこの感覚に慣れていないことだ。
慣れてしまえばそれで終わり。少女の笑顔でさえただの肉の塊としか認識できなくなってしまえば自分はもう人ではないだろう。否、また『戻って』しまうだろう。
そう思えば思うほど、逃がした獲物は大きかった。


「───で、いつまで上司を地面に転がしとくんですカ」

「あ、ああ……」

言葉に茫然としていた青年が肩を担ごうと寄ってきたが、そこで何故かはたと動きが止まる。

(……?)

視線は一点に注がれ、妙に触れるのを戸惑って手を出したり引っ込めたりしていた。


「なあ……肩、外れてないか?」

「ああ…」


引かない痛みに違和感を感じていたが、原因はこれだったらしい。
身体を起こすのを補助してもらいゆっくり立ち上がると、止める間もなくブレイクは適当な壁に外れた肩を思い切り打ち付けた。
ごきんと内部で音が弾け、何とも言い難い激痛が抜けていく。世界は広いがこの感覚が好きな人類は存在しないのではないだろうか。ぼんやりそんなことを考えつつ動かすと、元の場所にはまった関節が意に応えた。しかし僅かに動かすだけで火箸を押し付けたような痛みが駆け巡り、どこかが折れているのだと確信するのに十分だった。
これ以上の面倒を背負わせないようにと平気な顔をして、肩を抱く。


「ふー……」

「お前…言ってくれれば肩ぐらい……」

「君入れるの下手じゃないですか。変に戸惑うし痛いんですヨ」

「………、」


思ったよりも硬い声が出てしまったが、それでも返す言葉が無いのか黙りこくったギルバートはゆっくりと歩き出した。
顔を上げれば帰り損ねた星が明け始めた空を心許なく彩っている。余程切羽詰まった馬鹿でない限り契約者は基本的に夜の内の行動を好む傾向があるため、今の時間ではもうどこかへ身を潜めてしまっている頃だろう。実質的に終わりを告げたこの日の探索にため息を吐き出しながら、ブレイクは部下の肩に体重を掛けた。
重い、と不服の言葉に不貞腐れたふりをして俯くと薄明かりに黄色く照らされた石畳が見上げている。そこに垂れている赤色の血に決して浅くない傷を思い出し、気付かれないようにぎりりと唇を噛み締めた。
何かがぽっかりと抜け落ちた不安感と身体の中でぐるぐると渦巻く不快感。前者は慢性的なもので、後者は先の戦闘の置土産らしい。
避け損ねた一撃は思い返せば返すほど酷い失態だった。

(子供か、私は……)

一歩一歩に気遣いながら部下が歩く。目を合わせようともしないで口元を引き締めるのは彼が自身を責めている時の癖だ。
本当はあの注意の言葉に反応しきれなかったこちらに非があるだけで、彼には何も気に負う必要は無いのに、いつのまにか彼に己の非を被せて逃げようとしている自分が居る事に呆れた。それどころか、自分で言っておきながら戦闘に参加させておけば良かったなどと考えるのはただの馬鹿の行為でしかない。
部下に気遣われている時点で平静を装う事すら上手くできていない今の自分の心の乱れ様にほとほと嫌気が差していた。

けれど、名前を呼ばれて刹那に開いたあの空白は、空白以外の何物でもなかったのだ。
ちらりと覗いた契約者の顔。
似ていた。否、あまりに似過ぎていた。

蓋をしていた過去に。



 ねぇ、やだよう。

 行かないで───私、



『ひとりに なっちゃうよ』



「ッ!」

思わず肩を抱えていた部下を突き飛ばし、路地端に身体を折り曲げ胃の中身を戻していた。


「ブレイク!?」

「っ、かは……げ、ぇっ! ぐッ……」

元々ろくに食べていなかった為大したものは出なかったが、胃が荒れていたのか最後には血が混じっていた。汚い地面に着く寸前でがくんと振動がしたので支えられたらしいと分かったが、振り返る事すら出来ない。


「っ……う」


野菜不足はこういった時に祟る───なんて皮肉を思う間もなく、限界だった意識がふっと浮いて途絶え、確かな記憶があるのはそれまでだった。


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