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「………、その先は…どうなったの?」
ごくり、と唾を飲む音が聞こえた。
隣にふわふわと揺れるのは向日葵の色を移したように鮮やかな金の髪。安っぽい煙草を銜えて椅子に腰掛けていた旅装束の男はその興味津々な様子に少し眉を上げると、不味いと知りながら丸く煙を吐き出した。
「…どうもしないさ。ただ、その皇子には自分で自分を殺すような勇気がなかっただけ」
「ね、ナイフ持ってたよな? もしかしてそれが?」
「ああ、これか?」
二十を少し過ぎた色の白い男はそう言って、袖の長い手元から手品のように古ぼけて切れなさそうなボロボロのナイフを取り出した。錆びた刃物を見て傍らの少年が目を輝かせて触らせてほしいと男にねだると、特に気を悪くするでもなく男はぞんざいにそれを手渡す。
「……どうせ角の土産屋で売り付けられた物だしな。幸運を呼ぶとか言って」
ぼそり。受け取った途端にくるくると色々な角度でボロボロのナイフを見回す様子に男は付け加えると、ばっと少年はナイフから男の方へと視線を戻した。
「え。じゃあ本物は?」
「誰も本当にあった話とは言ってないだろ?」
ふっと淡く男の顔が綻ぶ。
少し馬鹿にしたような表情に一瞬少年は呆気に取られ、それから思い切り男の脇腹に手を突っ込んだ。
どすっ! とあまり気遣いのない音が鈍く身体中に響き、見事なくの字に折れ曲がる男の身体。
「いッ?! ちょっ、おい、お前客に向かって……っ!?」
「オレの涙を返せ馬鹿っ!」
「涙って…泣いてなかっただろうが」
「心の涙だよ!」
「っ、そんな理由で殴るな!!」
ぎゃあぎゃあと喚く少年の頭を添え付けの簡素なベッドに押しつけ、男は思い切り叫ぶ。少年が身を縮めて耳を塞いだ辺り結構な音量だったらしいが、隣の壁は厚かったようで他の客が部屋に飛び込んでくるようなことにはならなかった。
元々客室が一部屋しかないただの家のような安宿だからそれは当たり前とも言えるのだが。
ちなみに宿の主人がこの少年の伯父であり、宿の手伝いをしているらしい彼は先刻夕食を知らせに来たかと思えばずっとこの調子で部屋に居座り続けている。
偶然荷物の整理をしているときに彼が入ってきたからというのもあるが、ちっとも進まない片付けに内心男はため息を吐いた。
その手元にはこの小さな国では到底見ることの出来ないであろう大きな砂漠の鉱石、岩塩、何に使うのか良く分からない小さな儀式人形などがゴロゴロと転がっており、その近く落ちているいくつかの時価を書いた紙と合わせて男が旅の商人であることを物語っていた。
「ところで夕飯じゃなかったのか?」
「あ、忘れてた。それで来たんだっけ」
「宿の手伝いをしたいならもう少し客商売ってのを学んでからだな……」
「ねえねえ、これ何?」
「〜ったく、勝手に触るんじゃない!」
ばっと何が付いているのかも分からない奇術めいた薬壺に触れようとした少年の手を慌てて制止する。
何も知らないとはいえ、自分ですら手袋をしないと触れないものに平気で触れようとする精神には呆れを通り越して感嘆の一言だ。
しかし元々活発そうな顔立ちを笑顔でさらに輝かせた少年はそんな男の心境も知らず、相変わらずあちこちへ興味の眼差しを送りながら明るく問い掛ける。
「旅って楽しい? 色んな国が見れるんだろ?」
「まあ確かに見れるが…そう楽しい事ばかりじゃないな」
「そう? 例えば?」
「例えば……砂漠で水が切れれば干からびて死ぬだろうし、谷や森で迷えば出られずに動物に食われることもある。旅商人なんてろくな死に方が出来ない奴ばかりだ」
「へー」
「……人の話を聞いてないだろう」
「え、そんなことないって」
傍目には分厚い頭巾のような装束を纏っているため良く分からないが、近くで見るとピクピクと僅かにこめかみを痙攣させながら男が言う。だが、そんな男に構わず少年はベッドから降りてドアを開けた。
「食事の時にまた話聞かせてくれる? きっとオスカー叔父さんも興味ありそうだし、もしかしたら宿代まけてくれるかもよ」
「とか言ってお前が聞きたいだけだろうが」
「あはは、当たりー。でも宿代は本当にまけてくれるんじゃない?」
適当な事をのたまって、少年は開けたドアからさっさと出て行ってしまった。
その細い後ろ姿を見ながら、ふと思い立って窓を開ける。
夕飯と言いながらまだ少し早い時間なのか、外には石造りの家並みが夕日に身を染めて茜色に化粧していた。
「旅は楽しい、か……」
分厚い上着を脱ぎ、軽く畳んでベッドの端に置く。
夜を移し取ったような波打つ黒髪がその中からふわりと現れ、ちらりと覗く耳には金のイヤーカフス。肩に掛かるほどに伸びた髪をシンプルなリボンで結わえると、男は胸元から鎖に繋いだ金属の欠片を取り出した。
ボロボロに錆びてもう何なのか分からないほどに汚れたそれは、かつて赤く染まった砂の上に落ちていたものだった。
「……楽しくてもそうでなくても、オレにはこれしかないからな」
砂漠にあった亡国の皇子の話の続き。
彼には、自分で自分を殺すような勇気がなかっただけ。
ナイフを取ったのはすぐ後のことだった。止めることのない亡骸の傍で、しかし彼はその刃物を己の胸に突き立てることは出来なかった。
生きる意志を見出だした訳ではない。けれど、ただ怖かった。
生きることも、死ぬことも、どちらも同じくらいに怖かった。
だが、隻眼の商人が開いてくれた世界の扉を、自分で閉めるのは嫌だと思ったのだ。
そうして亡骸を誰も訪れない土の下に埋めた後、非力な皇子はずっと世界の間を縫うように歩いて来た。
今日この時、この瞬間も。
(……相変わらず、逃げたままだ)
結局、自分は何も変わっていないのかもしれない。
でも一つだけ、分かったこともある。
自分達のように旅をする者の存在は酷く空虚だ。
世界を、国々を巡るという事はどこにも根を下ろさないということでもある。
人々の中に残る記憶など無いに等しく、心に爪痕すら残さない。
だからこそ、今同じ場所に立って分かったのだ。
あの時、何の利もないのに命運を共にしてくれた彼の思いが。
きっと彼も、そんな空虚な自分自身を知っていたのだろう、と。
誰の心にも触れない、どこにも帰る場所が無い。
それを誇りとしながら、それでも彼は誰かに自分の存在した証を残したくなったのかもしれない。
だから彼はその相手を選び、白紙に絵の具を落とすように自らの形を焼き付けていったのだ。
身勝手な理由で、けれど今でも鮮明に思い出せるほど精一杯の命の形を。
(当分消えそうにないな……)
小さく息を吐いて、そして笑う。
押しつけられたそれはどんな悪夢よりも性質が悪くて、どんな教えの神よりも救われる。恋と呼ぶにはあまりに不完全で───思い出と片付けるには、あまりに重い形。
「……行くか」
窓枠の外に広がる夕暮れの街にかつて過ごした時間を思いながら、男は灰ばかりになった煙草を灰皿に捨てて窓を閉める。
夕日の色は赤く紅く、どこか懐かしい色を浮かべて空に滲んでいた。
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