黒猫と革紐。 | ナノ



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「っ、ブレイクさん! 返事して下さい!!」


熱い砂に人形のような重みだけを伝える身体を横たえて、必死に隻眼の商人に呼び掛けた。

間に合わなかった。
後少し、踏み込んでいれば。
後悔に呑み込まれそうな意識をかろうじて保つことが出来たのは、かすかな呼吸の音を聞き取ることが出来たからだった。


「…っ……は…」

「ブレイクさん!!」

「ギル、バー、ト……君…?」

「今…今すぐ手当てしますから……! だから…!!」


肩から溢れるおびただしい量の血は砂を鮮やかに染め、その先に何が待っているかは素人でもすぐに分かるような状態だった。うだる程暑いこの気温の中で商人の身体は火照るどころか蒼白に青ざめていき、着ていた服を裂いて覆った傷からはまたすぐに新しい血が吹き出して傷に当てていた手が真っ赤に濡れる。
震えて絶望する手に触れた指先は冷たく、首を振ったその挙動は酷くゆっくりだった。


「……そん、な」

「………、」


意識しなければ聞き逃しそうな小さな呼吸音。
段々と小さくなっていくそれは、カウントダウンだった。
思い出などない。素性も知らない。名前だって嘘かもしれない。
確かなものなど、何もない。
けれど失いたくなくて、唯一与えられた彼を示すものを他の言葉を忘れたかのように何度も何度も口にした。


「……っ…ブレイク、さん…!」


ごぼっ、と色を失った薄い唇を血が汚す。

鮮やかな赤。高い空の青も遠い砂漠の黄色もその前にはくすんでしまいそうな命の色。
ぽたぽたと零した涙にさえ薄れない色を身体中に纏って、名を呼ばれる度に横たわった身体は応えるように唇を震わせた。


「…っ?」


聞こえない言葉を血塗れの口が紡ぐ。
声など出るはずも無いのに、それでも涙でぐしゃぐしゃの顔を彼は笑った気がした。


似合いませんね、と。


悲哀の別れの言葉でも、生への足掻きでもない。
何でもない言葉を血と共に吐き出して───それきり、隻眼の商人からぱたりと反応は無くなった。




「……れ、…く…さん?」


座り込み、ぽたりと頬を掠めたそれは二度目の雨で、あれほど明るかった太陽はいつのまにか鈍色に滲んで大地に水が降り注いでいた。
蘇る思い出も何もなく、空の涙が砂を打つ。


「………、嘘つき…」


手をかざし、塞ぐように瞼に触れた。

口端を汚していた血を拭い取るとそこにあるのは眠っているように静かな表情。片方を伸ばした前髪で覆った隻眼も、まだかすかにぬくもりを残す頬も、今にも冗談ですよと起きだしそうな、そんな気すらするのに。
世界に色が無くなったかのように、視界に降り注ぐ雨は赤く見えた。


「…相手を…してくれるんじゃ…なかったんですか……? 答えも待ってくれないなんて、酷いじゃないですか…」

泣いている空は灰の色へ、冷たい身体を包む破れた布はすすけた生成りへ、その布を握り締める手は白へと色が戻っても、目に焼き付く赤だけが元に戻らない。


「…何、も…っ…返させてくれない、なんて…!」


答えはなかった。
響き渡る哀惜の受け取り手は青年の世界から消えて、雨だけが空から降りてくる。
静かな砂の上に崩折れ、顔を伏せた先には、もう動かない白い手が握り締めたナイフだけが雨に薄い刃を濡らして鈍く光っていた。

刃は僅かに紅く、まるで自らを取れと静かに促すように。
───少し時間を置いて、痩せた手は鈍色の柄へと伸びていった。


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