V
「ほらほら、早く逃げますヨ」
「はい…!」
響き渡る兵達の怒号。
かつかつと靴音が反響する廊下の端には、彼がやったのか衛兵が一まとめに寄せられて伸びていた。
兵達は皆見た目こそ派手にやられているようだったが一滴の血も流しておらず、器用にも全員が全員気絶で済まされているようで、改めてこの旅商人の異様さがひしひしと伝わってくる。
(……来てくれた、なんて…)
本当は、ここで死ぬつもりだった。
長い時間を娼館の小さな部屋で過ごしてきた弱い自分を守りながら復讐を果たすなど夢物語であると分かっていたし、もしもそれが出来たとしてももうどこにも居場所がない自分はすぐに捕らえられていた事だろう。第一失敗の可能性の方が高い自分の我が儘に誰も付き合わせたくなかったのだ。
だが、彼はそんな自分の話を聞くと笑ってこう言ってくれた。
『それ、どうしても一人でないと出来ませんか?』
『…え?』
『復讐にルールなんて無いでしょう? そういう楽しいコトは一人じゃあつまらないじゃないですカ』
ただの、行きずりの男娼に。
厄介者でしかない逃亡者に。
密告だけしていれば報奨金を手に入れてそれで終わりの筈だったのに、全部終わったらまたお相手願えますかと冗談を零して、最後まで彼は我が儘に付き合ってくれた。
結局、その冗談にまだ答えは出せていなかったけれど。
(…兵が来る前に早くこの城から逃げないと……)
窓枠に残った硝子の欠片を丁寧に刀の柄でならすと、一足先に足を乗せた商人が引き寄せようとするように腕を伸ばす。
「高い所は平気ですか?」
「……多分、行けます」
「なるほど。では行きますか」
決して低くはない窓から下までの距離。けれど、不思議とそれに対して戸惑いや恐怖といったものはほとんど感じなかった。
本来なら復讐を決めた時に消えていた未来。ある筈の無かったその先を思うと、何故か心が踊った。
彼の手を取って外に出れば、あの他愛もない冗談に答えを返せるのだろうか。
(逃げる必要の無い世界、か……)
窓の外の太陽が眩しく見える。
だが、差し出された手を取って、窓枠から足を踏みだそうとした時だった。
「…待…て……!」
「───?!」
片付けられたはずの衛兵の中から一人、おぼつかない足取りで立ち上がった兵の姿が見えた。
立つのもやっとという状態のその兵はよろめきながらも必死で任務を遂行しようと、こちらに向かって曲がった剣を振り下ろす。その切っ先は片手を伸ばして体勢の不安定な商人の腕を狙っていたらしいが、視界が振れるのかまともな軌道を辿らずにめちゃくちゃな方向へ落ちた。
ちょうど、反応の遅れた彼の胴を二つに裂くように。
「───!!」
ザッ、と。
刹那、鋭利な刃が布を裂く音がした。
一瞬遅れて一気に真っ赤な血が溢れ出し、砂漠に落とされた雫のようにそれは布に染み渡っていく。
庇おうと割って入ろうとした自分に何かがどさりと落ちてきて、それが彼の身体だと気が付くのに数秒を要した。
「あ………?」
ぐら、と二人分の体重を乗せた足が重みに負けて後ろへ倒れていく。
窓枠の向こう、城の外へ。
視界の端に人形のように崩れ落ちる兵の姿だけが見えて、後は黄色味を帯びた城の外壁が上から下へ矢のような速さで素通りした。
「が…ッ!」
どん、という着地の衝撃はその後に少し遅れてやってきた。
背中から落ちたために砂を介して尚強い衝撃が身体の中心をビリビリと走り抜け、太陽に焼けた熱い砂が背中全体に熱さを伝えてくる。
昼夜が逆転する娼館の中で今まで夜しか見てこなかった目に映る雲一つ無い太陽の光。
しかし、それ以上に仰向けになった視覚は鮮やかに焼き付くものをを見た。
───それは、決して砂漠に無いもの。
赤く、紅く、大地に降り注ぐ無数の雫。
空はこんなにも晴れているのに。
目も眩むような鮮やかな雨はやわらかく身体を叩き、乾いた砂漠の砂をほんの少し濡らして───そして、止んだ。
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