▼契約更新


以前の無いに等しい煎餅座布団と比べ随分座り心地のよいソファに座りながら、いつも通り平丸の弱音、愚痴、恨み言をBGMに打ち合わせを進めていく。
絶対に無理だ、もうこれ以上いいアイディアは見つからない、締め切りには間に合わない、1週くらい休んだ方が…
平丸の口からはマイナスの言葉が勢いよく溢れ出てくる。
作家にはいろいろなタイプがいて、俺もその度手を焼いてきた訳だが、平丸は愚痴や弱音を吐くだけ吐いてストレス発散させながら原稿を進めていくタイプ。
だからこれはこれで大丈夫。
打ち合わせのほとんどの時間が平丸の愚痴だが、打ち合わせは順調に進んでいるのだ。
俺がネームの1コマを指さしながらアドバイスをすると、気に食わなかったのか鋭い眼光が俺を睨んだ。
どうやらそろそろ今週の蒼樹紅先生の出番らしい。
じゃじゃーんと適当な効果音を言いながら手帳を取り出すと、さっきまでの不機嫌はどうしたのか、平丸はいつになく輝く瞳で俺を見上げた。


平丸をなだめつつ、アメをちらつかせつつ、はっぱをかけつつ話し合いを進め、何とか打ち合わせは終わった。
腕時計を見ると日付が変わっていたが、いつものこと。
あと残された今日の用事はこの書類だけだ。
封筒の中から1枚の紙切れを取り出し、仕事用のデスクに座る平丸の目の前に置く。

「なんですか。
このやたら難しそうなことが長ったらしく書いてある紙切れは」

打ち合わせで体力も精神力もすり減らしたのか、平丸は机に突っ伏しながら紙をひらひらと弄んでいる。

「前にも書いたことあるだろ。
これにハンコ押したら1年間は他社で描かずにジャンプで書きますってやつだ」

「じゃ、じゃあ、これにハンコ押したら、また1年間もの長い期間、感情の欠片もない吉田氏に馬車馬のように働かされるってことじゃないですか。
まさに生き地獄、狂気の沙汰だ」

回転式の椅子をくるっと回転させ振り向き、大げさなジェスチャーをしながら、さも嫌そうな顔で俺を見る。

「まぁ、そうとも言うがな。
しかしキミ、ハンコを押さないと無職になってしまうぞ。
漫画家っていうのは保障がない仕事だからな」

「うぐっ、働きたくはないですけど無職だけは勘弁だ」

脱サラして無職の辛い時期を思い出したのか、平丸は普段から不健康な顔色を更に青くさせた。
渋々といった感じで平丸は契約書を手に取り、震える手でボールペンを持ち署名する。
次にデスクのカギ付きの引き出しから印鑑を大切そうに取り出し、署名の下に判を押した。
ティッシュを手に取ったかと思うと、印鑑についた朱肉を念入りにふき取っている。
変なところで神経質なところがあるんだよな…
そういえば俺はこんな光景を以前も見たことがある。
あれは…





『ラッコ11号』、平丸一也(26)
トレジャーに応募してきた作品を見た時は単純におもしろい、この人の作品をもっと読みたいと思った。
絵は取り立ててうまいとは言えないが、何より発想が面白く、登場するキャラクターに魅力を感じた。
この人は俺が見ていきたい。
一緒にラッコ11号を作っていきたいと思った。
平丸一也とはどんな人間なんだろうか。


「平丸さんですよね。
この度平丸さんを担当することになりました吉田です。
宜しくお願いします」

ポケットから名刺を取り出し差し出すと、軽く会釈をしながらその人は受け取った。

「じゃあ、座りましょうか」

パーティションで区切られた空間に、机を挟み向き合って座る。
今回の打ち合わせの予定を入れるために電話した際も、変わり者という印象を受けていたが、実際会ってみるとますますその思いは強くなった。
落ち着かないのかきょろきょろとせわしなく動く目。
その目つきはあまりよろしくなく、長く伸ばされた真っ黒の髪が異端な雰囲気を放っている。
今まで普通にサラリーマンだったということが信じ難い。
白いシャツを着ているのは社会人だったころの名残だろうか。
その袖口から覗く妙に細く白い手首がやけに目につく。
この人は3食ちゃんと食事を摂っているのだろうか。
外に出ることはあるのだろうか。
漫画家には変わり者が多いが、見た目から判断するにこの人も相当な変わり者らしい。

「では、本題に入ります」

話し始めると鋭い目線が俺に向けられた。
俺の説明を聞く目つきはまるで睨むようだったが、震える指が視界に入り、極度の緊張状態だということがわかった。
どうやら虚勢を張っているらしい…
その時、俺は平丸を責任を持って育てていくという義務感よりも使命感を感じた。

こいつは俺が何とかしてやらないと。

なんだか放っておけない。

今までそれなりに何人か作家を担当してきたが、使命感を感じたのは初めてだった。
それは天命にも似ていた。

「ではここにハンコをお願いします」

これから契約して連載を始めていくという状況に緊張しているのか、平丸のハンコを持つ手が震えていた。
まぁ自分の人生がかかっているんだから、無理はない。

「ハンコ押しました。
お願いします」

遠慮がちに差し出された契約書を受け取る。
鋭いが不安が見え隠れする瞳を見ながら、平丸には俺しかいない。
原稿は偶然じゃなく必然的に俺が手に取ったんだと馬鹿なことまで頭をよぎった。

そして…
俺の生活の大部分を平丸が占めるようになった。





「吉田氏、これでいいですよね」

いつの間にか平丸がソファの隣に腰掛け、俺の目の前に契約書をつきだしていた。
細い筆跡で平丸一也と書かれたすぐ下に判が押されている。

「あぁ、見せてみろ」

契約書に記載漏れがないか確認しながら、俺は不意に婚姻届に判を押した時のことも思い出した。
婚姻届によって夫婦という法律的にも保証される関係になった俺と妻。
この紙切れ1枚の契約書も、それと同じように自分と平丸を結び付ける唯一の制約なのではと思った。
確認を済ませ、折り曲げないよう慎重に封筒に入れる。

「今年も契約ありがとうございます、センセイ。
これからもいい作品を作っていきましょう」

めったに見せない営業スマイルで平丸をからかってやる。

「吉田氏こそ、僕がちゃんと描けるようにサポートしてくださいよ。
それがあんたの仕事であり、僕のモチベーションはいつだって吉田氏のアメにかかっているんですから」

お返しのつもりか平丸が皮肉っぽく笑う。
お世辞にも爽やかとは言えないその癖のある笑顔を見ながら


来年も再来年も変わらぬこの関係をと願った。


手の中の封筒がかさりと音を立てた。


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