月夜の浜辺 | ナノ


呼吸をするように



 例えば、頼まれた任務で部下がつまらない失敗をしたとする。
 面倒臭いと溜め息を一つ。それから如何して遣れば上手く事が運ぶかを沈思黙考。策が有ればそれを実行して終了。少々、否、かなり手間暇は掛かるけれども部下の失態は上司である自分の失態と同等だ。仕方無いと腹も括れる。が、しかし。そんな日に帰宅した家の中が大惨事だなんて誰が思うだろう。
 白、白、白。テーブルを中心にキッチンまで粉まみれの家に出迎えられれば文句の一つも出て来ない。キッチンの床に座り込んで雑巾を握る佐倉は言わずもがな粉まみれで、そんな姿を見据えれば小さく肩を震わせた。何かを言う気力は無い。取り敢えず肩に掛けていた外套を脱いで帽子と一緒にソファに投げる。それから振り返って涙目でこちらを見遣る佐倉を見下ろした。

「言いたい事は」
「…………」

 実際の所、言いたくても言えないのは百も承知だ。言いたいなら紙とペンを使えば良い。それでも佐倉はただ視線を彷徨わせてから俯くだけだった。
 部下の件もあってか些細なそれについ苛付いて、そしてそんな自分に苛立ちが募る。

「……佐倉」

 胸中に燻るそれらを消す如く小さく息を吐くと床に座り込む佐倉の名前を呼んだ。そろそろと窺う様に見上げた佐倉に舌打ちしそうになるのを寸での所で抑えて口を開く。

「服に付いたの払え」

 訝しげにしつつも言われた通り立ち上がりながらそこかしこに付いた白い粉を払った佐倉は、続く言葉を待つ様に視線をこちらへ投げる。そんな視線を無視して佐倉を摘み上げると足早に廊下を歩き浴室へと放り込んだ。

「取り敢えず手前は汚れたそれを如何にかしろ、そのまま部屋ン中を歩くな」

 それだけ言い残して浴室を後にする。
 あの白い粉は小麦粉か何かだろう。仕事にしろ家事にしろ粉類の後始末ほど面倒な物は無い。
 抑え込んだ筈の苛立ちを煙草で掻き消そうと先程放った外套に手を伸ばし掛けたところでキッチンから聞こえた軽快な電子音。拍子抜けするその軽い音に今日一番の長く大きな溜め息を吐いて腹を括る。後始末の為に足を向けたそこは甘い匂いが充満していた。





 さくり。
 美味しいのだろう、これは。不味くはない。だがしかし美味しいと言える味かと訊かれると躊躇うのも事実。そもそもこれは何に成る筈だったのか。

「……クッキーの心算か?」

 さくさくと小気味良い音を立てて咀嚼。如何いった経緯かは知らないが、大量の薄力粉により悲惨な状態になっていたキッチン周りは随分前に片付けた。そう云えばオーブンが鳴っていたと思い出して開ければ鉄板の上に並べられた歪な何か≠フ数々に首を傾げたのは数分前だったか。粗熱も取れて冷めた焼き菓子をもう一つ指で摘み上げて口に放る。クッキーと称すにはなかなかに難しい。眉間に皺が寄るのが自分でも分かって口の中にある物を珈琲で喉に流し込んだ頃、ひたりと背後から静かな音が聞こえて振り返る。肩にタオルを掛けた佐倉がすぐ傍まで歩み寄って来るのを静かに眺め、漸く目の前まで来たかと思えばすぐさま俯いた。

「生憎、下を向かれたら見えるモンも見えねぇからな、読み取れるモンも読み取れねぇぞ」

 小さな手がぎゅっと俺の服の裾を掴む。それを見て気付かれない様に一つ息を吐いた。
 ゆっくりとしゃがみ込んで佐倉の視線に合わせてやると、彼女は居た堪れなさそうにしながら唇を動かす。ここで理解出来なかったと言えば泣き出すのだろうか。否、紙とペンを取り出すか。どうでも良い事を少し考えてから指先で佐倉の額を弾いて腰を上げ口を開く。

「今度からは気を付けろ」

 こくりと頷いた佐倉を一瞥して鉄板を指差した。不思議そうに目を瞬かせゆっくりと首を傾げた佐倉の口元に指先で摘んだ焼き菓子を持って行くと、ぱくりと咀嚼する。それを眺めながら「で?」と問うと、未だ理解出来ていないらしい佐倉は更に首を傾げた。

「オイ、手前が作ったんだろうが」

 こくり。頷いて嚥下。

「クッキーでも作りたかったのか?」

 問いながら数分前同様に喰むと、またしても頷いた佐倉が見上げてきた。

「何だってまた唐突にこんな物を……」

 さくさくさく。小腹が空いた時には良いのかもしれないが、そう云った意図が有るとは思えない。佐倉はテーブルに向かうとスケッチブックを開いてペンを走らせる。そうして、書き終わったそれをこちらへ掲げた。

『なかはらさん たんじょうび』
「失敗してんじゃねぇか、焦げてんぞ」

 素直な感想を述べてやる。誕生日祝いに作ったと聞いても、失敗作だし挙げ句の果てに片付けまでさせられる始末だ。そんな俺の胸中など知らず、佐倉は再びペンを走らせてから紙を掲げる。曰く『このまえ こうようさんと つくったらできた』からだと。

「上手くいったのは姐さんの手があったからで手前一人じゃまだ無理が有る」

 考え直せ、と付け足してやると悔しそうに頬を膨らませた。そんな姿を見てもう一つ焼き菓子を口に含んで珈琲を堪能する。

「に、してもあれだな、クッキーの心算なんだろうが、クッキーじゃない何かに似てる」

 何だったろう。クッキーには似てるのだけど何に似ているのか。
 真っ黒とはいかずともクッキーらしからぬ焦げ茶色になったそれを手にしげしげと見詰めながら呟くと、目を瞬かせた佐倉がスケッチブックを再び此方へ向ける。

『びすけっと』
「違ぇし手前はそれで良いのか製作者」

 クッキーじゃねぇのかこれは。せめて手前はクッキーだと主張しろ。難しい話でも聞いた後の様な顔で首を捻った佐倉を尻目に珈琲を啜ってはたと気付く。

「ああ、乾パンか」

 色と云い口の中の水分を全部持って行かれる感じと云い乾パンその物だ。一人得心していれば、テーブルの前で椅子に座りそれを聞いていた佐倉が非道く不服そうな顔でこちらを見ているのに気付く。

「焦がした手前が悪い。ま、来年に期待だな」

 肩を竦めて言えば佐倉は今に見てろと言わんばかりに息巻いてからテーブルに突っ伏した。口が利けたのならきっと喧しい事この上ないのだろう。何ともなしにそう思ったのと同じ頃、不意に佐倉が顔を上げたかと思いきや、座っていた椅子から降りてこちらへ歩み寄って来た。
 何事かと首を傾げる俺の服を掴んだ佐倉が、にこりと笑いながら唇を動かすのをただ黙って見つめる。

 音も無くひっそりと吐き出された吐息は、確かに祝いの言葉を述べていた。




2016/04/30初出
2022/08/27加筆修正

あなたのしあわせが呼吸するように
いつもそばにありますように
title by.白群さま



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