月夜の浜辺 | ナノ


誰が言った



 何も見えない暗い闇の中で目が覚めた、というのは違うかもしれない。飛び起きたと云った方が正しいのだろう。息が詰まるような感覚に襲われ上手く呼吸が出来ない。胸元のシャツを握り締めると漸く息を吐き出した。同時に脳裏に浮かび上がってくる先程の光景に、寒くはないのに体が震える。大丈夫だ、どこも痛くない。怖いものも此処にはいない。胸中で何度も繰り返す。
 誰か誰か誰か、誰か助けて、誰か――

「    」

 呟いた筈の名前は空気に散って消える。嗚呼、独りだ。

 とぷり。思考が水底に沈む。






 おかしい、否、おかしくはないのだけど、疑問。何故ソファの上に丸い塊が在るのか。
 とは云え、考えられる可能性なんてひとつしかない。佐倉。理由であろう人物の名前を呼べばその塊はびくりと震え、もそもそと被っていた黒い布から顔を出した。緩慢な動作でこちらへ向けられた瞳は不安げに揺れる。そんな小さな同居人を見ながら暫し沈思黙考。よくよく見ると黒い布は自分の外套であったし、寝る時は寝台(ベッド)に行けと告げてある。理由が如何あれ、何もソファの上で寝なくても佳いだろうに。
「まあ、訊きたいことは多々あるが、取り敢えず言い訳を聞いてやる」
 つ、とその黒い布を指差して言うと、彼女は其れを握り締めたままソファから立ち上がった。どこへ行くのかと思って眺めていれば俺の傍まで歩み寄り、ぎゅっと腰に抱き付く。しがみつくの方が言葉的には正確か。こんな所で寝ていた理由は予想通りだったらしい。皺になっても困るので一先ず外套を取り上げると、そっと窺うように見上げてくる琥珀色の瞳と目が合った。

「怖い夢でもみて寝れなくなった、ってとこか」

 くつりと愉悦を隠すことなく口にする。意地悪いとは自覚しているし、わざとそうしているのも事実。そうして、佐倉がそれに気付いて拗ねるのも分かりきっている。案の定、拗ねた彼女は顔を逸らしてつい先程取り上げた外套を奪い返すべく掴んで引っ張った。

「オイこら、何しやがる」

 指先で佐倉の額を弾く。ぎゅっと目を瞑って外套から手を離した彼女は、その小さな手で額を擦ると不服そうに唇を尖らせた。その様子を眺めてから腕を伸ばして小さな身体を抱え上げてソファに腰を下ろす。あやすように背中を軽く叩いてやれば、じわり、琥珀の瞳が涙に濡れた。

「ただの夢だろうが」

 何かを言おうと開かれた唇は、しかし、何かを伝えることもなく閉じられた。それと同時に俯いた彼女を暫く見詰める。佐倉。俯いたままそれきりの彼女の名前を呼んでみるも、矢張り視線は上がらなかった。

「手前が見たものが手前の過去に現実として存在していたのは事実だし、其れを忘れろなんざ云う心算はねェが、所詮其れは過去だ。今、其れが目の前にあるなら話は別だが、ある訳がない。これから先、現れることも有り得ない」

 違うか?
 続けて問い掛けると漸く顔を上げた佐倉が弱々しいながらも首を横に振った。それでも不安の色は未だ残って消える事は無い。そっと溜め息を吐いて、艶やかな黒檀の髪をくしゃりと撫でる。

「過去に怯えるな、手前が生きてるのは過去じゃねぇだろ。死にたくないっつったのは何処の誰だ」

 ほろりと零れ落ちた雫が真っ白な頬を濡らした。それを指先で拭ってやると微かに漏れ出た嗚咽に思わず苦笑する。泣くなと云ったところで泣き止む訳では無いのだが、泣くなと云いたくなるのは仕方が無い事なのだろう。嗚呼でもきっと、今、口にすべき言葉はそれではない。

「佐倉」

 名前を呼ぶ。返事代わりに必ずこちらに向けられる琥珀色には涙の膜が張られていた。それが瞬きと共に頬を滑り落ちたのを見届けてから言葉を続ける。

「死にたくないなら生きろ」

 ほろほろと止め処なく涙を零す佐倉は一度だけ頷いて、音も無く『生きたい』とだけ告げた。



2016/03/22初出
2022/08/27加筆修正

夜が静かだなんて誰が言った
title by.さよならの惑星

 

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