月夜の浜辺 | ナノ


最初の呼吸



 歩く度に鳴るリノリウムの床。ただの病院としか思えない造りの内装。化学的な薬品臭を塗り潰すように、硝煙と鉄錆の匂いが立ち込める室内をゆっくりとした足取りで進む己の背後で、絶叫にも似た断末魔が響き渡っている。あまりにも品のない其れに小さな舌打ちをひとつ零しながら、出立前に記憶した情報を脳内に並べて現状と照らし合わせた。片耳に填めたイヤホンから、『敵影なしオールクリア』と部下の声が端的に告げる。【施設職員を掃討せよ】という指示を完遂できたことに若干の満足感を覚えつつ、何ともなしに入った部屋の中を、これまた何ともなしに見回すと、何故だか無性に、どうしようもなく、部屋の隅に置かれたクロゼットが気になった。

 部下の報告が正しいのならば、この施設内には我々以外もう誰もいないはずである。そも、作り出した死体の数と直前の情報で得た人数はきっちりと合っている。で、あれば、誰もいないはずなのに何故こんなにもクロゼットが気になるのか。意識を集中させてみたが、これと云って物音はしない。――否、微かに衣擦れの音がした。わざとらしく足音を鳴らしクロゼットに歩み寄ると、指先をノブに引っ掛けた。存在しないはずの存在とご対面である。






 遠くの方で聞こえる物音で目が覚めた。真っ白い天井に、真っ白な遮光布カーテン。真っ白な毛布の中でずしりと重たい身体をなんとか起こす。さっきの音はなんだったのだろう。疑問に思い冷たい床へ足を着けようとした瞬間、誰かの叫び声が聞こえて身体が竦んだ。行動と反射が相反していた所為か、寝台から上手く降り立つことが出来ず綺麗に磨かれた床へ転げ落ちる。痛みに息を詰まらせながら扉の方を見ると、誰かの叫び声と、怒鳴り声、何かが爆発するような音が不協和音を奏でるように混ざり合っていた。不安が胸を掻き立て焦燥が脳内を占拠する。心臓が早鐘を打ち身体が震えて上手く呼吸が出来ない。

 知っている、この叫び声を。
 知っている、この怒鳴り声を。
 知っている、この爆発音を。

 ぜんぶぜんぶ知っている。これら全て自分が、父や母、それと見知らぬ大人たちに毎日毎日投げられる言葉で、それとともに毎日毎日向けられる音で、過去の自分が、そして今の自分が心の中で、救済と謝罪と懇願を込めて発している声だった。それらを今、自分以外の誰かが発していて、そしてそれはきっと、父や母、見知らぬ大人たちの声であることを理解して、目尻から零れた涙が床に落ちていった。

 こわい。何が起こっているのか分からなくてこわい。それと同じぐらい、否、それ以上に、いつかの自分が願ったことが、今、おそらく現在進行形で叶われようとしていることに対して少しでも喜びを覚えている自分がこわかった。例え何をされようと、大好きで大切な存在であることは変わらない父と母がいなくなるかもしれないこの現状を、喜んでいる自分が何よりもこわかった。何よりもこわくて、悲しくて、苦しくてつらくて嫌で嫌で嫌で、涙が止まらなかった。父も母も大切なのに、大好きなのに、ずっと一緒にいたいのに、いなくなってしまうかもしれないことがこんなにも嬉しく感じる自分が理解出来なくてこわかった。
 はくはくと口を動かし、音のない声で父を呼んで、次いで母を呼んだ。徐々に騒音がこちらへ近付いてきていることに気付いて部屋の中をぐるりと見渡す。涙で滲んでよく見えないけれど、記憶が正しければクロゼットがあったはずだ。未だ震える身体を叱咤して立ち上がると、なるべく音を立てないようにクロゼットの扉を開けて、その中へ身を隠した。爪先を駆使してなんとかクロゼットの扉を閉めると、真っ暗な世界が自身を包み込む。

 ごめんなさい。ゆるして、ごめんなさい。

 自分だけが逃げようとしていることにそこで気付いて、両手で口元を覆い、声を押し殺して泣いた。きっと赦されないのだろう。父と母は赦してくれず、見知らぬ大人たちも赦してくれないのだと思う。それでも、この暗闇から出ることは出来なかった。出てしまえばきっと、自分も父と母と同じように同じ場所へ逝けるのだと分かっていたが、それでも、痛いことだけはどうしても嫌だったのだ。故に、例えこれが赦されない行動で恨まれる考えだとしても、このちっぽけな暗闇の世界から飛び出して、自分も父と母と同じ場所へ逝かせて欲しいと嘆願することは出来なかった。

 ――カツリ。不意に音が聞こえて息が止まる。

 誰かが其処にいた。誰か、父でも母でもない、見知らぬ大人たちでもない誰かがこの部屋の中に確かに存在した。薄っぺらな木製の扉越しに誰かがいて、しかし自分の存在は気付かれていないようであった。ばくばくと鳴る心臓の音が耳の中で木霊する。漏れ出てしまいそうな呼吸を必死に隠して、見付からないようにそっと身体を縮こませる。すり、と素足が何かに触れた時にはもう遅かった。動くべきではなかったと後悔しても時既に遅く、扉の外にいる誰かは明らかに気付いたようだった。コツコツと足音が響きながら近付いてくる。狂ったように叫び出したくなる衝動を両手で必死に抑えこみながら、開かれるであろう扉を凝視した。何か、固い物が扉に触れてギッと軋んだ音が鳴る。徐々に開かれていく扉から差し込む光が眩しくて、けれどもう見れなくなるのだと思うと目を逸らすことが出来なかった。扉が全て開かれて、外の誰かと目が合ってしまえばきっと、自分はもう父と母の元に逝っているのだろう。そう確信があった。だからこそ、真っ暗な世界にもちゃんと光はあるのだという事実を目に焼き付けておきたかったのだ。例えこれが絶望しか生み出さない光であったとしても、光はあるのだという事実を忘れないようにしたかった。

 ゆっくりと開かれる扉の向こうから差し込む光の中に黒い影が見えて、せめて痛いのは一瞬であればいいな、とぼんやり考える。何度も何度も痛いのはもう嫌だから、せめて一回だけが良いな、と思いながら、黒い影をじっと見上げた。薄い茶色の髪に黒い服。それから茶色の瞳が此方を見下ろして細められ――――見開いた。
 完全に開かれた扉の向こう、クロゼットの前に立っていたその人は知らない男の人だった。そもそも、自分の記憶の中には白衣を着た人間しかおらず、彼のように黒衣を身に纏った人間は存在しないのである。珍しい姿の人間をクロゼットの中でしゃがみ込んで見上げる自分と、そんな自分を見下ろして不思議そうな顔をしている彼は、他の人が見たら変な取り合わせなのだろう。どこか――おそらく部屋の外だと思われる――から、「如何いかがされましたか?」と問い掛ける声が聞こえて自分も、そして眼前の男の人もハッとした顔をした。いや……、と男の人が口籠もり此方をまじまじと見つめる。それから「オイ」と短く誰かに呼び掛けると「はい」とこれまた短く、誰かが返事をした。

「此処にガキが居るなんて報告あったか?」
「子供……ですか? いえ、そんな報告は無かったかと……」

 困惑気味な声に、彼は小さく頷いて何かを考える素振りを見せた。まさか。そこに。どうして。そんな声が幾つか聞こえてきたので、周りの人も自分の存在に気付いたらしい。目の前の人物は横から差し出されたらしい紙束をパラパラと眺める。其れはどこか見覚えのある紙束で、どこで見たんだったかと考えていると、おもむろに彼の手がピタリと止まった。険しい目付きで紙と自分を交互に見て、彼はその紙を此方に向けた。見せられた紙面には自身の写真が貼付されていたのでゆっくりと頷く。はあ、と大きな溜め息を吐いた彼は、再び紙束に目を通し始める。その姿を静観しながら、あの紙束は父が嬉々として書き溜め眺めていた物だと思い出した。成る程、あれには自分のことが沢山書かれているのだろう。それで? そんな物を読んで彼はどうする心算なんだろう。そんな物など読まず、他の人たちと同じようにしてしまえば佳いのに。そこまで考えて気付く。

 そういえば、自分は死ねるのだろうか?

 あの紙に何が書いてあるのかは分からない。けれど、毎日毎日おこなわれていたことが書かれているのであれば、この男の人は『ここにいる人間がもしかしたら死なないかもしれない』と気付いたかもしれない。『死なないかもしれないし、もしかしたら死ぬかもしれない』という、曖昧で不確かな人間だということに、おそらく気付いたのであろう。一瞬だけ眉間に皺を寄せた男の人が紙から顔を上げて此方を見据えて口を開いた。

「生きるか死ぬか選ばせて遣る」

 ざわりと、周囲がどよめく。しかしそれも、彼がひと睨みすると静かになった。何も言わず、ただ黙ったまま彼を見上げる。生きるか死ぬかを選ぶとは、どういう意味なのだろう。選ぶのは向こうのはずなのに、何故選べるのだろう。

「手前が選べ」

 静かな声が、静かな室内に響く。有無を言わせない口調で選択権を与えられたことに混乱したが、選ぶものは既に決まっていた。否、決まってはいなかった。決めていなかったけれど、無意識のうちに震える唇を動かし、言葉を紡いでいた。

「    」

 相変わらず音は出なかった。だから彼がきちんと読み取ってくれたのか分からない。しかし彼はなんとも云えない、苦しそうな、悲しそうな、泣きそうな顔を一瞬だけした。その表情の意味がどういうものか分からず首を傾げる前に、黒い手袋を填めた手が近付いて、思わず身構えた身体を軽々と持ち上げる。

「――撤収だ」

 短く告げた彼の声が頭のすぐ上で聞こえて、自分が彼に抱え上げられているのだとそこで漸く気が付いた。
 死んでいない。自分は死んでおらず、生きているのだと理解した。父と母と同じ場所に逝くことはなかったのだと理解して、彼が其れを赦したのだと理解した。父と母の死を喜び、自身だけが生きていくという傲慢が赦されたのだと理解して、嬉しくて苦しくて寂しくて胸が張り裂けそうに痛くて、痛くて痛くて痛くて、嬉しくて涙が止まらなかった。


 彼の浮かべた表情が憐れみからくるものだと知ったのは、もっと後のことである。




2022/08/24(完成)
2022/09/20(掲載)

きみの最初の呼吸を見たのさ
title by.alkalism

 

[ back ]



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -