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己が楽しみを求める人は、



 「私は空却のように仏教徒でもなければ何か他の、例えば神道とかキリスト教とか、そういうのにも属していないから何かに傾倒する、って言うのかな? そういうのがよく分からないんだけど、宗教って、ひとつの意思表示だと思う」

 こつり。秒針の音が小さく鳴って、ナマエの言葉に相槌を打つ。その一連の流れを聞きながら、マグカップの中で湯気を立てる緑茶を口に含んだ。隣り合いローソファに身を沈める彼女の横顔を何ともなしに眺めてから口を開く。
 何を今更なことを。
 そう返そうとして、開いた口をゆっくり閉じた。
 今更だろうか。果たして本当に、宗教はひとつの意思表示なのだろうか。首を捻って何と返したものかと思案していると、横から「あ、」と小さな声が上がる。

「嘘ついた、違うかも」
「オイ」
「ごめんって。よく考えたらそうじゃないかもな、って思ったの」

 バツが悪そうに眉尻を下げてそう言ったナマエは、一度自分の手の中にあるマグカップへ視線を落としてからこちらを向く。

「もしかして、真面目に考えてくれてた?」
「まあ、どう答えたもんかと考えてはいたな」
「あのまま待ってたら優しいお坊さんのありがたい説法が聴けたのか」

 それは惜しいことをした。くすくすと、囁くような笑みを零して付け足した彼女を睥睨してからソファの背もたれに体重を預ける。よく言えば飲みやすい温度にまで冷めてしまった緑茶を飲んでから問い掛けた。

「そもそも、なんでそんな風に思ったんだよ」
「えー……うーん、なんか、なんだろう。色んな宗教があって、それぞれにそれぞれの特色とかがあるじゃんね? 空却も、何かしら思うところがあって僧侶になるって決めたんだろうし……そう思うと、じゃあその仏教の考えとかを知れば、空却のこともなんとなく分かるのかなぁ、って思ったの」
「……なるほどなァ」

 なんとなく、ナマエの言いたいことが理解出来て頷いた。確かにそれはあるのかもしれない。例えば輪廻転生を信じているだとか、有神論者であるとか、死生観だとか、そういうものであればそれぞれの宗教から読み取ることは可能だろう。
 しかし、ナマエはすぐ傍らに置かれたローテーブルにマグカップを置くと、膝を抱えるように座り直してそこに顔を埋めた。

「そう思ったんだけど」
「おう」
「親が仏教徒だからキリスト教徒だからっていう理由で、本当は嫌だけど信仰してる人も少なからず居るなぁ、って思って、じゃあ意思表示ではないな、って考え直した」
「聞かない話ではねぇな、確かに」

 親が敬虔な信者であれば、その子供も必然的に親に倣うことはよくある話だ。実際、そういった悩みを聞くこともある。それを思えば、意思表示ではないという結論に至るのも至極真っ当な思考回路だろう。
 隣でナマエが身動ぎする気配を感じて視線を移す。そっと顔を上げた彼女の、どこか憂いを帯びた声が耳朶に触れた。

「……そもそも、なんでみんな宗教に傾倒するんだろう……」

 それは、外の喧噪の中では掻き消されてしまうような声だった。数分前に彼女がローテーブルに置いたマグカップの横に自分が持っていたマグカップを並べて置くと、言葉を選ぶ。

「宗教が何かにもよるだろ」
「……宗派による、ってこと?」
「そっちじゃねぇよ、個々人が宗教をどう受け止めてるか、だ」

 そう返してひとつ息を吐く。

「まあ、大体の奴らは宗教に救いを求めてんだろうな。拙僧から言わせてもらえりゃあ、宗教に救いなんざねぇよ。宗教はそれぞれが思う救いへの道筋を指し示すための手段だ。それは仏教だろうが神道だろうが、キリスト教だろうがヒンドゥー教だろうが同じだ、聖典を読んでも救われるわけじゃねぇ。ただ神を称える文言と、道徳を説く言葉が書き連ねてあるだけだ。そんなんで救われるか? 救われねぇだろ。それでも人が宗教に、神に、仏に帰依するのは、それで何かが変わると思ってるからだ。何が変わるのか? 価値観、人生観、死生観、行動、発言あたりは、結構影響受けるだろうな。じゃあ、それらが変わって何がある? 何になる?」
「…………救い……?」
「当たり」

 くしゃりと、ナマエの黒い髪を撫でて褒めてやると、何とも言えない微妙そうな顔をするので思わず笑いが零れる。子供扱いされたと感じたのだろう、それでも、褒められたのは嬉しい、といったところか。
 笑われたことに対して不満げにこちらを睨む彼女に謝罪の言葉を述べると、誠意が足りないと怒られたが、それこそ笑って流した。

「《己が楽しみを求める人は、己が煩悩の矢を抜くべし》。安らぎを求めるならまず煩悩を消し去らなきゃどうにもならねぇ。だが、己の中の煩悩を消し去ることが出来るのは己のみだ、他人や曖昧な存在に求めることじゃねぇだろ」
「………………ありがたい説法じゃなくて説教だった」

 暫しの沈黙の後に呟かれたそれに、思い切り吹き出してしまったのは仕方ないと思う。




2020/03/12

スッタニパータ第592偈より抜粋
作業用BGM:ヒプラジ



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