(記憶喪失臨也)
記憶が欠落した。
君は誰?と口にすると、相手は酷く眉を寄せて俺の名前であろう言葉を紡いだ。
「臨也…、」
思い出せない。
白いこの部屋も、どうして俺がここに居るのかも。目の前にいる金髪の彼も、そして俺そのものが誰なのか。
頭に白い靄があって、思い出せない。
「…貴方、は…誰ですか?」
「…平和島、静雄だ」
「へいわじま…しずお」
何処かで聞いた事があるのに。それは何なのか分からない。無理に思いだそうとすると痛みが邪魔をする。
誰ですか。
俺の何だったんですか。
俺は貴方とどういう関係ですか。
色々の疑問が思考回路を行き交いする。でも何処にも辿り着かなくてさ迷うだけ。
「俺は、君を…なんて呼んで居たのですか?」
「…………シズちゃん、」
「シズちゃん…そうですか。じゃあシズちゃんと呼んで良いですか?」
「勝手にしろ」
「わかりました」
可笑しいな。
彼をこんな近くで感じているのが、俺の心の中で嬉しさを込み上げる。
…………嬉しさ?
あれ、嬉しさって…なんだ?
「臨也?少し寝てろよ」
「寝たくないです」
「じゃあ、横になってろ。起きたばかりでだりぃだろ」
シズちゃん。貴方は何でここにいるんですか。
そんな事を言おうとして、口を開いたけどそれは彼の大きな手のひらが遮る。手のひらは俺の頭を撫でた。
「……」
ウレシイ…?
なんだろう。この胸に込み上げる"何か"は。ウレシイとは違う感情。
教えてほしい。
教えてほしいんです。
貴方とのことも教えてください。
「何か、喋ってくれませんか。貴方と俺の思い出を」
「……」
彼は無言になった。
どうしたんだろう、
「悪い、話せない」
「何故ですか?俺と貴方は、トモダチなんですよね?」
「トモダチ…か。はは、トモダチか」
トモダチで無ければ、何故貴方はここに居るの?
俺の何だったの?
知りたくて心が騒ぎ出す。
「…教えてください」
「…教える思い出はねぇよ」
「じゃあ、何で此処にいるんですか?」
「……手前ぇが好きだから、看病しに来たんだ」
…………す、き?
好き、てなに?
「好き…?」
「ああ。いや、別に大した事じゃねぇから気にすんな」
好き、すき?
俺はこの感情を知ってる。
きっとこうなる前から、知っていた感情だったはずなのに、分からない。
考えれば考えるほど頭の痛さが増すだけ。
「ありがとう、と言えば良いんですか?こういう時」
「ああ、それで良い」
笑った顔。
わらった、
ああ、おれも。
こんなふうに、わらってた?
きっと。わらってた。
「人並みの事は出来るみてぇだから良かった」
「そう、ですか」
「……じゃあ俺は帰るな。また明日、来る」
「はい」
病室から出て行く彼は、最後に小さく「すまなかった」と頭を垂れた。
何故、謝るの?
君は何か悪い事をしたの?
聞きたい質問は、扉の閉まる音によって遮断された。
医師が言うには、記憶が戻る可能性は低いのだという。周りの事が曖昧で分からない部分があるらしく、感情のコントロールや何かを覚えて行くことは難しいと。前に会った人の顔さえもまた忘れてしまう…いわゆるアルツハイマーのような症状だと言われた。アルツハイマーよりは酷くはないが、他人の顔をすぐに忘れてしまう。感情が複雑だと医師は眉を寄せて告げた。
だから次の日…金髪の彼がまた来ても、俺の脳は"はじめての人"だと認識していた。
「はじめまして」
「……ああ、はじめまして」
「お名前は何と言うんですか?」
「平和島静雄だ」
彼は、そんな俺と真っ正面から向き合ってくれた。彼と話していると俺の中で暖かい気持ちになっていくのが分かった。
なんて名付ければ良いのか分からないけれど、それはそれは、不思議と心が落ち着いていく日々だった。
「…明日になれば、また貴方を忘れてしまうんですよね」
「…そう、だな」
「君と会話した内容も、この空の色も、何を食べたかも、全部リセットしてしまうんですよね」
また明日になれば、一からやり直し。
何をしても頭には残らない。
何をしても覚えられない自分が悔しい。
誰だって消したい過去の記憶はあるもの。でも本当に無くすと、そこで自分は何を思っていたのかも忘れてしまう。
苦しいことも思い出の一部だったのに。
「…じゃあ、もう帰らないとな。また明日…な、臨也」
「うん、またね…シズちゃん」
名前を呼んでいるのに。
こんなに溢れんばかりの感情が喉まで込み上げてくるのに、何をどうすれば良いのか分からない。
「分からない、よ…」
明日が来なければいいのに。
何も思い出せなくなってしまうなら、朝なんて来なければ良いのに。
「会いたい…シズちゃん」
そこではじめて俺は、目頭から透明な滴を目の当たりにする。
なんだろう、これは。
なんだろう、このしずくは。
「何なの…っ」
分からないよ。この滴の意味が。
ただ胸がギュッて苦しいだけ。
誰か教えてよ、
もう、何も分からないのは嫌だよ。
明くる日明くる日、シズちゃんは俺の元を訪ねてくれた。その度に俺は彼を初対面だと認識する。一日の会話ひとつひとつは、きっと意味を為さない事なのに、彼は毎日来てくれた。
俺の感情や想いは昨日のままなのに、何を話したのかも、彼は誰なのかも、ましてや自分のことさえ忘れている。
「知りたい…」
「ん?」
「知りたいんです。貴方の事も、この意味の分からない感情も!明日になったらまた貴方を忘れているのなんて嫌です。たった短い時間しかお話してないですけど…どうしてか、貴方とは長くお話をしていた気がするんです」
「……」
「もう嫌だ…こんなの。今までどうりの俺に戻りたい、貴方を忘れたくない」
「……悪い…悪い、臨也。お前がこうなったのは俺のせいなんだ」
眉を寄せて、顔を歪める彼は俺の頬に手をそえた。
なんでこんな顔、するんだろ。
何処か痛いのかな?
「俺とお前は、殺し合いの喧嘩ばっかしててよ…俺は標識を手前ぇに投げつけたんだ」
殺し合い?
俺と、君が?
こんなに仲良く話しているのに?
「いつもの手前ぇなら避けれた…なのに、お前は避けなかった。むしろ俺が聞きてぇぐれぇなんだ…なんで避けなかった?なんでわざわざ当たりに行ったんだ?」
ぽたり、と彼の目頭から滴が流れた。
あれ。
この滴、何処かで見た事ある。
胸がキュッとして、息が出来なくて呼吸混乱を起こしそうだ。
「シズ、ちゃん…?」