現パロ
執事張遼×政治家曹操の娘夢主
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「私と逃げてよ。ここから連れ去って」
 少女の声は震えていた。
命じる言葉とは裏腹に、その声色は何かを恐れている不安に満ちていて、酷く頼りなかった。
何処かで船の汽笛が音を鳴らす。静かなこの空間にはその音がやけに大きく響いた。
暗がりの港では唯一の明かりである灯台の光が、時より少女の顔を晒す。
 いつもの自信に満ち溢れた気高き令嬢はそこに居ない。
真っ直ぐに自分を見据えてくる双眸も、命令を口にする凛とした声音も、そこにはなかった。
そこに居る少女は、何処にでもいる普通の女子と変わりないように思えた。
 怯えるような眼差しを向けられて、男は少女に対していつも以上の慈しみの想いを抱かすにはいられなかった。
そして心のどこかで今の少女の姿に安堵している自分を知り、少しだけ可笑しくなってしまう。
少女がそんな表情を見せるのがそれほど意外だったのかもしれない。
「お嬢様」
「そんな呼び方で呼ばないでっ! ……もう聞き飽きたわ」
 忌々しげに少女は言い放った。泣きそうな震え声にも聞こえたのは気のせいではないのだろう。
周りの人間達から呼ばれるその呼び方を、少女はずっと嫌っている。
 政治家の父親の娘だからと、富豪の令嬢だからと、そんな下らない理由で、少女の名前を呼ぶ者は誰ひとりとしていなかった。
誰も本当の自分の名前を呼んではくれない、誰も本当の自分を見てはくれない……。
そんな思いが、幼い頃から少女をずっと苦しめていた。
 男もその事実を嫌という程知っている。幾度となく車の中で聞かされてきた愚痴だから、というのもあるだろう。
呪いのように呼ばれ続けた憎たらしいこの呼び名を、少女が好きになれるわけもない。
しかし、それでも男は少女を苦しめる呼び名を口にしなければならない。自分の立場を理解していれば尚の事。
「私の名前はお嬢様なんかじゃないわ……!」
「存じております。ですが、私は貴女の名を呼んではならないのです、旦那様からそれは禁じられております。それに、貴女と逃げる事も、今の私には……」
「……やっぱり、貴方もお父様の言いなりなのね」
 落胆に満ちた溜め息が少女の口から溢れた。
ぎゅっと、少女は制服のスカートを強く握り締める。
男は表情にこそ出さないが、胸の奥がズキリと痛みを訴えている事には気付いていた。気付いていながら、気付かぬフリをした。
誰よりも慕い、慈しんできた相手なのだ。そんな相手を自分自身が苦しめているのだから、罪悪感がないわけがない。
 彼女を、抱き締めたいと思った。けれど、それを行動に移す事は男には出来ない。
ただの従者である自分が、主の愛娘に対して行う行為ではない事を、男は十分に理解しているつもりだからだ。
「皆そうだわ。お父様に近付きたい為に私を利用して、私の事を見てくれる人なんて誰もいない……! お父様を怖がって、私の願いを叶えてくれる人なんて、私と逃げてくれる人なんて……一人も……っ」
 堪え切れなかったのだろう、少女の頬に涙が伝う。
長年少女に付き従っていたが、男が彼女の涙を見たのはこれが初めてだった。
誰にも弱さを見せた事のない少女が、今自分の目の前で涙を流している。
潤んだ瞳が男を睨みつけている。怒りや憎しみのこもった眼差しが、ただ真っ直ぐと男を見据えていた。
 綺麗な瞳だと、いつもながらに男は思う。不謹慎ではあるだろうが、男はその瞳に魅入られていた。
少女の澄みきった真っ直ぐな瞳を、少女が幼い頃から男はずっと見てきた。
幼少の頃から少女の瞳はとても純粋で美しく、朗らかな笑顔を浮かべればまるで満開の花が咲いたように可憐であった。
 男を映すその瞳が、純粋さや美しさを保ちながらも酷く冷淡になってきたのはいつからだろうか。
気付けば少女は自身の親や兄弟にさえ、向ける表情に笑顔はなく、紡ぐ言葉さえも冷ややかだった。
周りの人間にも壁を隔てるようになり、いつの間にか男に対しても冷たくなっていたように感じる。
 迎えの車の中で学校が楽しいと嬉しそうに語っていた少女は、次第に学校なんてつまらないと溜め息混じりに呟くようになっていた。
学校の先生も、クラスメイトも、まるで仮面のような笑顔を貼り付けて気持ち悪い……! 憎々しげに吐き捨てた少女の言葉を思い出す。
「貴方ならわかってくれてると思ってたのに! ……わかったわ。私を攫ってくれないなら、一緒に逃げてくれないなら……」
「っ!?」
「死んで自由になるわ」
 ふっ、と……酷く悲しい微笑みを見せたかと思えば、少女は後ろへと一歩足を引いた。
瞬間、少女の身体が少しだけ浮遊し、そのまま倒れ込むように海へと落ちていく。
暗がりの世界で、まるで少女が深い闇の中へと飲み込まれていくような、そんな感じがした。
男は少女の行動を理解して、彼女の元へと走りだす。無我夢中で少女へ手を伸ばした。
 どぷん。鈍い水音が海水の中でも耳に入った。
水面から跳ね飛んだ魚が水の中へと戻る感覚が、男にはなんとなくだがわかったような気がする。
目の前の少女の腕を引いて、離すまいと腕の中に無理矢理閉じ込めた。
初めは男から離れようと暴れていた少女だが、男の力には勝てず、大人しく共に海面へと上がっていく。
 暗闇の海から這い上がり、酸素を求めて荒々しい呼吸を繰り返した。
ゆっくりと男は息を整えたかと思えば、すぐさま口を開く。少女に伝えねばならない言葉があったのだ。
「っ、何を考えているのですかっ!?」
 男の怒鳴り声が響いたかと思えば、重い静寂が辺りを包んだ。
少女は驚きを隠せなかった。
目の前の従者に怒鳴られた事など、一度たりともなかったからだ。
いつだって優しく微笑むだけで、怒ったとしても少しだけ小言を挟むくらいで……こんなにも怒りを露わにした顔を少女は知らなかった。
怒られたこと以上に、その表情が自分に向けられている事に少女はショックを受けていた。怒鳴る男を怖いとさえ思った。
 男が腕を少しだけ動かすと、少女は男に叩かれてしまうかもしれないと思い、咄嗟に目を閉じてしまう。
自分が悪さをした時、父に怒鳴られて頬を叩かれた事があったから、ふとその時の記憶が蘇ってしまったのだろう。
 しかし、感じた痛みは叩かれるようなそれではなく……どちらかと言えば締め付けられる痛み、けれど決して痛覚を刺激するようなものではなかった。
男に強く抱き締められているのだと理解したのは少し後で、少女が目を開いて最初に見えたのは男の黒いスーツ。
海水を吸ってさらに濃い色に染まっている。
「……ご無事でよかった」
 心底安心したように囁いた男は、より一層少女を包む腕の力を強めた。
本当に自分を心配してくれていたのだと、男が少女を抱く腕が証明していた。
叩かれなかった事への安堵もあるだろう、しかしながらそれ以上に男への反省の気持ちが少女の中で強くなった。
「……めん、なさ……っ、ごめん、なさい……!」
 初めて、少女は男に向かって謝罪の言葉を口にした。
いつもは男が少女に向けて発する言葉であるのに、まさか自分がその言葉を男に向けて紡ぐとは少女も思わなかった。
男に対しての申し訳なさや、自分を心配してくれていた事への嬉しさ、少女の中で溢れ出したそれらの感情は涙となって一気に彼女の瞳から零れ落ちていく。
 小さな子供のように大声を出して少女は泣いた。
今まで我慢していた声を全て吐き出すように、男の胸に顔を埋めて泣きじゃくった。
男は何も言わない。ただ少女を抱き締め、時に少女の頭を撫でる。
少女の気が済むまで泣かせてあげようと思ったのだ。




 濡れた服を乾かそうと上着を脱いだ。全身から潮の香りが鼻にまとわりつく。
フロントガラスに広げられた上着を見ながら、これはすぐにクリーニングに出さなくては、と男は小さく笑みをこぼした。
主の傍にいる従者も、身なりには気を使わなくてはならないのは当然の事。
 今が真冬でなくてよかったと男は思った、寒空の下では濡れた服を乾かすも何もないだろう。
少女には車に入ってもらい、用意していた服を着るように促した。
 こういう事態を想定して……というわけでは勿論なく、少女が時々帰りにさっさと着替えたいと言うことがあるので、毎日服を用意しているのだ。
男はいつも以上に優しさを帯びた声音で、開かれた車の窓越しに少女に声をかけた。
「お嬢様」
「…………」
「……私が、旦那様に拾われた身である事はご存知でございますね?」
「……知ってるわ。だから貴方はお父様に絶対服従を誓ってるんでしょ」
「左様でございます。ですから、旦那様に命ぜられた事には逆らえないのです」
「………………」
「服を乾かすまでの間、少し……昔話に付き合っていただけないでしょうか?」
 男の頼みに少女は言葉では答えず、静かに首を縦に振ることで了承の意を示した。
男は少女に礼を言って微笑むと、静かに語り出した。懐かしむような声音に、少女は思わず聞き入ってしまいそうになる。
どこかでまた船の汽笛が音を鳴らしていた。
「情けない話ですが、私はあまり人との関わり方を知らぬ人間でございまして……特に子供には酷く嫌われておりました。
お嬢様の兄上様達など、泣くと私が来るぞと旦那様に言われただけで泣くのをやめるのですから……そんなに私が近くに来るのが嫌なのかと傷ついた事をよく覚えております。
 お嬢様がこの世に生を受けられた時、初めて女の子が生まれたと、旦那様はそれはそれはお喜びになりましてな……従者の者達にもお嬢様のお顔を見せに来てくださいました。
少しだけ触れる事も許してくださいました。初めて触れた赤子の肌はとても柔らかく、温かかった。
すぐに指を離しましたが、その時私の手などよりずっと小さな赤子のそれが、私の指を握ったのです。
その力のなんと弱かった事……けれど離せなかった、私の手を握る赤子が嬉しそうに笑っていたから。それはそれは愛らしく、笑っていたのですから。
 その時、何があってもこの小さな生命を守らなくてはと思ったのです。
その成長を傍でずっと見守ろうと誓いました。初めて旦那様に願い出て、傍にいる事を許していただきました。
 日に日に淑女へと成長していくお姿を見るのが何よりの楽しみでありました。……けれど、だんだんと私の心の片隅で、それまでとは違う感情が芽生え始めている事に気付きました。
しかしそれは本来、従者である私にはあってはならぬものと、気付かぬフリをしてきました。
そして時は流れていき、私の守りたかった愛らしい笑顔が、いつの間にかとても冷たい表情となっておりました。
 学校で関わる者達のせいでしょう、私のせいでもあるでしょう……皆が皆、お嬢様をお嬢様としか呼ばない事が、目の前のお嬢様ではなく、お嬢様の後ろにいる旦那様のご機嫌ばかりを気にしている事が、お嬢様の笑顔を消してしまっていたのでしょう
 気付かぬフリをしていた感情に、向き合うきっかけでした。素直に認めてしまえば楽なものでございました。
その感情を受け入れ、あの笑顔をまた見ることができるのなら、私はどんな事でもしようと決意しました。
そんな私の想いに旦那様は気付いていたのでしょう、私を呼び出し、私から真実を聞き出されたのです。
私は答えました、自分の中の感情全てをそのまま旦那様にお伝えしました。
 お恥ずかしながら、この歳になってまるで少年のような恋をしております、と」
 男の長い昔話を聞いていた少女は、最後の男の言葉を聞いた途端に驚いた表情を見せた。
目をぱちくちさせて、男の言葉が信じられないといった様子だった。
男はくすりと笑って、再び口を開く。昔話はまだ終わっていないようだ。
「しかしながらやはり戸惑いはございました。私はただの従者ですから。だがそれ以前に、まず相手との年齢が離れすぎている。
私の一方的な想いであろうというのは目に見えておりました。ところが、旦那様は私にこうおっしゃられた。
 娘はどうも自分の傍にいる従者に好意を抱いているようだ、と。
正直に言いますと、旦那様が冗談を言っているのだと思いました。けれどそうではなかった。
若くして厳しい政界を勝ち上がってきたお方だ。人を見る目に長けていらっしゃる。……いいえ、もしくは父親の勘、というものなのかもしれません。
旦那様は確証をお持ちだった、だからこそ私にそう告げたのでしょう。
 旦那様はこう続けられました。
いづれ、娘は政略の為に顔も知らない男の元に嫁がせる、それを変えるつもりはない。
娘は間違いなく嫌がるであろう、惚れた男にすがりつく思いで自分と逃げてほしいなどと懇願するやもしれぬ。
そんな命知らずな男がどこにいるのだろうな。
だが、この曹孟徳を恐れず、娘を攫って逃げ切る事のできる男がいるものなら、娘の追走劇を楽しんでやらん事もない。そう言って笑っておられました」
「ねぇ、ちょっと……待ってよ。それって……!」
 少女は車から飛び出たかと思えば、男の目の前に立ち塞がった。
男の湿ったシャツの胸のあたりを掴んで、男を屈ませて自分の視線と合わせるようにする。
男の長い昔話は、初めて聞いた少女には疑問に思う内容が多すぎたのだ。
 当然のことだが、赤ん坊の頃の記憶などあるわけもなく、男の指を握ったり笑顔を向けたりした事など覚えているわけもない。
気付けば確かに男はずっと少女の傍にいた。けれどそれは、そうするようにと父に命じられたからだと思っていた。
 まるで少年のような恋をしている? 男の少女に対する感情がそんなものだったなんて、少女が知るわけもなかった。
いつも余裕のある笑みを浮かべて,少女の言葉など平然と軽く聞き流していた男が、自分に好意を抱いているなど、少女には考えられなかったのだ。
 少女の父親は男のその感情を知っていて、それどころか少女の男に対する感情さえも気付いていて、父親は男になんと言った?
そして、男はその父親の言葉を聞いたのなら、それならば。
「ならどうして、私と逃げてくれないのよ……? 私を連れ去ってくれないのよっ!」
 男のシャツをより一層強く握りしめた。じわり、シャツに残っていた水分が少女の手を濡らす。
少女はただ、連れ去って欲しかったのだ。誰も自分を知らない、遠い場所に。
少女をただ一人の人間として見てくれる場所を、少女を少女として見てくれる相手と共に。
 昔から、少女は男を従者としてなど見てはいなかった。
幼き頃から家族よりもずっと傍にいてくれた、少女の話を聞いてくれた、たった一人の特別な人であった。
それが父の命令だからなのだというのはわかっていた。それでもいいと思っていた時だってあった。
 けれど成長するにつれ、自分の中の欲は日に日に膨らんでいって、気付けば今のままの関係では満足できなくなっていた。
男の口から「お嬢様」という呼び名を聞きたくなかった、自分を見てほしかった。
だからこそ、自分を連れて逃げて欲しかった。父の命令に背いて、自分の願いを叶えてほしかった。
なのに、男はそれを拒んだ。自分を好きだと言うのに……少女には理解できなかった。
「私は、貴方とならって……そう思っていたのに……」
「……本音を言えば、今すぐにでもお嬢様を連れ去ってしまいたいのです。お嬢様と呼ぶのもやめて、貴女を私だけのものにしてしまいたい」
 男は少女の背中に手を回し、そのまま少女を腕の中に閉じ込めた。
とくとく、男の少しだけ早まっている心音が少女の耳に入る。
今だけ、どうかお許しを。
男は少女の耳元で囁く。いつもよりどこか優しく、甘く。
「お慕いしております。貴女が私に微笑んでくれた、あの時から。けれど、貴女を連れ去るには……私にはまだその資格がないのです」
「そんなの、関係ないじゃない」
「いいえ。今逃げたところで、すぐに旦那様に見つけられてしまうでしょう。あの方は私以上に私やお嬢様の事を理解されております。
 旦那様から逃げる為に、私はそれ相応の準備をしなくてはなりません。勿論旦那様に気付かれることなく。……お分かりいただけますか?」
「……今がその時じゃないっていうのは、わかったわ」
「流石でございます」
「でも……なら、その時になったら……そしたら……私と逃げてくれる? 私の名前を呼んでくれる?」
 男から少しだけ離れて、少女は男に尋ねる。男のシャツを握る力はそのままに。
少女の不安げな声を聞いて、不安げな表情を見て、男は小さく笑った。
初めて見せたそんな表情な声音が、とても愛しく感じられたのだ。
確かめるように男を見つめる瞳はまるで小動物のようで、可愛いお方だと思わずにはいられない。
 ずっと想い続けていた。それが保護愛だと言われてしまえば、そうなのかもしれない。
自分はただの従者、一生叶うことのない片想いで構わないと思っていた。
夢を見るだけで、それだけでよかったと、思っていたのに。
少女から向けられた言葉が、その想いが、どれだけ嬉しかったことか。
「当然でございます。その時は、貴女のお望みのままに」
「だったら」
 男のシャツから手を離し、少女は右手を男に差し出す。
とくん、心臓が強く跳ねた。このまま骨も皮も破いて飛び出してきてしまうのではないだろうか、柄にもなく少女はそんな事を思った。
「誓って頂戴。言葉だけなんて嫌よ」
 不安げな顔も、声も、そこにはなかった。
男の瞳は、凛々しく可憐ないつもの少女の姿を映していた。
 嗚呼、やはり貴女はそうでなくては……。男は少しだけ満足そうに笑みを浮かべ、その場に静かに跪いた。
少女の手を取る。壊れ物でも扱うかのように、優しく。
深い深い愛情を込めて、少女の手の甲へ、口付けをおとした。
音も立てずに唇を離し、男は少女を見上げる。
「長い茨の道でございますが、それでもこの私と歩んでくださいますか?」
「貴方とならどんな道でも進んでいけるわ」
 男に見せた少女の表情は、男が初めて向けられた笑顔と変わりなく、けれど少しだけ大人びていて……まるで大輪の花のように美しかった。

終。

title / 確かに恋だった



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