似鳥作品‖伊神×葉山
「そういえば、伊神さんってピアノのコンクールで入賞したことあるんですよね。」 「ああ、そんなこともあったね。…でも誰に聞いたの、そんな話。」 「立花先輩に。」 出所はそこか…、と別に悪い話という訳でもないだろうに、伊神さんは苦い表情を浮かべた。
「何でまた急にそんな話を?」 「いえ、ただちょっと聴いてみたいなぁ…、と。」 そう言うとあからさまに顔を顰められる。何だか訊いたこちらが悪いような気になって段々と声が小さくなった。
「……ダメ、ですか?」 ちらりと自分より十数センチ上にある伊神さんの顔を見上げながら訊ねる。伊神さんはふ、と息を吐いた後「別にいいけど」と言ってスタスタと歩き出した。歩幅が大きいために直ぐに距離が開いてしまう。
「あの、伊神さん、」 「何?」 「どこ行くんですか?」 「どこって…音楽室に決まってるじゃない。聞きたいんでしょ?」 何を、と訊ねる程僕の思考力は衰えていない。速度を緩めることなく歩く伊神さんに置いて行かれないよう僕は早足で後を追った。
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しっかりと施錠されている筈の音楽室の鍵がピッキングツールによって難なく開けられる。少し黴臭い室内には、楽器のものと思わしき独特の香りが漂っていた。伊神さんはゆっくりとした足取りでグランドピアノに近付き、蓋を開けて鍵盤を押す。ポーン、と高い音が部屋に響いた。
「調律は出来てるね。」 そのまま椅子を出して腰掛けると、くるりと首だけ此方に向けた。「何がいい?」と僅かに首を傾げながら訊ねられたが、僕は音楽に精通してなどいない。クラシックなんて殆ど聴かないし、かと言って最近の曲に詳しい訳でもない。早い話が知らないのだ。
「…ええと、僕に合いそうなのを。」 咄嗟にバーの常連がバーテンダーに向かって言うような台詞が口をついて出る。いくらなんでもこれはない。自分自身にツッコミをいれたくなったが、伊神さんは「ふむ、」とだけ言って眉間に軽く皺を寄せた。暫くして『僕に合いそうな曲』が思い当たったらしくピアノに向き直る。長い指が鍵盤を叩いたと思った次の瞬間、音が溢れ出した。思わず息を呑む。上手い。コンクール入賞の経験があるのだから当たり前かもしれないが、クラスの女子など比べ物にならない程上手だった。一際強く鍵盤を叩き演奏が終わる。気付けば僕は自然に手を叩いていた。それに伊神さんが恭しく一礼をして応じる。合わせるようにしてギシ、と古びた椅子が音を立てた。
「なんて曲ですか?」 「エリック・サティのジュ・トゥ・ヴ。コマーシャルとかで使われてたりするけど、聴いたこと無い?」 「…ないです。」 一瞬ぐ、と言葉に詰まってしまう。自分から頼んでおいて演奏された曲が分からない、というのは何となくばつが悪い。おずおずと告げると別段気にした様子もなく「だろうね。君、テレビとか見なさそうだし。」と返された。
「ところで、何でこの曲にしたんですか?」 もう一つ気になったことを口にする。すると伊神さんは「調べてみれば分かるよ。」と手近な場所にあった紙切れにサラサラと何かを書き始めた。数秒後、パタンとペンを置いて紙切れを此方に差し出す。『Je te veux』と書かれたそれは、どうも曲のタイトルであるらしかった。伊神さんが何か言ったようだったが下校時刻を知らせる放送に遮られる。腕時計を見れば閉門まで後10分もなかった。
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夜勤の母親に代わって夕食を作っていると、不意にポケットの中の携帯が着信を告げる。手の水気をタオルで取ってからポケットを探ると、カサ、と紙の感触が手に伝わった。そう言えば、と伊神さんの言葉を思い出す。後は煮込むのみとなったシチューの具材を鍋に入れて火にかけ、僕は自室へと向かった。
パソコンを操作してインターネットの翻訳サイトに接続する。仏英翻訳モードを選択しフォームに文字列を入力して翻訳ボタンを押した。数秒して表示された文字列に思わず目を疑う。綴りを間違えたのかと思ったが、合っている。画面に表示されたのは、それこそ今日日小学生でも分かるような単純な英文だった。
『I want you.』
明日、どんな顔をして伊神さんに会えばよいのだろうか。妹が「ねえ、なんか焦げ臭いよ!」と言いながら部屋に入ってくるまで、僕は机に突っ伏したままそればかり考えていた。
(110219)
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