小説 | ナノ





始まりは食事中に隣のテーブルの酔っ払った男が始めた迷惑行為だった。床を踏みならす、大声を出す、店員を怒鳴りつける。最初は無視していたのだが、どんどんエスカレートしていく。ガタガタと揺れがテーブルに伝わってろくに食事もできない。他の客も困ったような表情を浮かべる中、すくりと立ち上がったのはクリフトだった。

「あの、すみませんが…」
「うるせぇ!」
力を込めて振り上げられた男の拳がクリフトの頬に当たる。細い体は軽々と吹っ飛び、壁に打ちつけられた。ガン、と鈍い音が響いて、一瞬水を打ったように静かになる。慌てて駆け寄ったミネアが抱き起こそうと肩に触れると、やんわりとした力でクリフトがそれを制した。ゆっくりと上げられた顔には大きな痣ができており、口の端が切れて血が伝っている。ポタリと垂れた血が、緑色の上着に濃い染みを作った。
それを見た瞬間頭の中が真っ白になった。拳を握り締めて床を蹴る。同じタイミングで床を蹴ったアリーナが視界の端に映った。

「クリフトに何すんのよ!」
「ってめ!」
アリーナと同時に拳を振り上げたその時、後ろから「ソロさん!姫様!」と鋭い声が飛ぶ。振り向くとクリフトが壁に手をついて立ち上がろうとしていた。殴られた箇所が、既に少し腫れ始めている。

「私なら大丈夫ですから。」
「でも、」
「心配しないでください、ホイミだってありますし。」
一息に言ったかと思うと一旦言葉を切る。心なしかフラついた足取りで殴った張本人のもとに歩み寄った。

「ここでは迷惑になります。外に出ましょう。」
にこりと微笑んで、クリフトがドアを指差すと、男はいい憂さ晴らしができたとでも思ったのか下卑た笑みを浮かべる。口が上手く動かないからかいつもより低い声で発せられた言葉に、後ろでアリーナが小さく息を飲んだ。続けて「どうしよう…気絶で済めばいいんだけど…」と独り言のように呟く。確かにあの体格差では結果は見えているし、体の弱いクリフトを心配する気持ちも分かる。そんなに心配なら止めればいいじゃないか、と思ったが、口には出さなかった。


外に出ると、クリフトは穏やかながらもどこか淡々とした口調で言葉を紡ぎ始めた。

「私は今から、5分間だけ神の教えに背きます。」
「……へ?」
「なので、その間にあちらの方を殴ろうが蹴ろうが知ったこっちゃありません。」
「…あの、クリフト、」
「私、こう見えても結構怒ってるんですよ?」

相変わらずの笑顔を浮かべたままで、帽子やストール、手袋といった装備を外していく。最後に肩から掛けている剣を外し身軽になったところで、初めて顔から笑みが消えた。

つかつかと男に歩み寄ると、下から顔を覗き込み、まるで挑発するかのようににっこりと笑う。神経を逆撫でされた男が腰を落として繰り出した拳を軽く受け流すと呆気にとられている男の膝を踏み台にしてそのままこめかみに反動をつけた足を叩き込んだ。力が無いのをカバーするように見事に急所をついている。足を揃えて着地した数秒後、男が地面に崩れ落ちた。ピクリとも動かない男を見てアリーナの言葉の意味を理解する。「気絶」する対象はクリフトではなく男の方を指していたのだ。あの反応からして今までにも同じようなことがあったのだろう。

5分どころか1分も経たないうちに地に伏した男に冷ややかな視線を送った後、こっちを見て「さあ、戻りましょうか」と晴れやかに言い放ったクリフトにただ無言で頷くことしかできなかった。


怒らせてはいけない人

(110818)



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