小説 | ナノ





ガシャン、と音がして、視界が90度回転した。
後方で空回るタイヤと散らばった荷物を見て、ようやく転んだのだと気づく。起き上がって砂埃を払うと鈍い痛みが全身に広がった。元々人通りが少ない道だったから醜態を見られるようなことは無かったが、反面、手を貸してくれる人間もいない。珍しく早く起きたからと自転車通学を試みたのがそもそも間違いだった。慣れないことはするもんじゃない。目の前の惨状を再確認してげんなりとする。自分が見ていないところで勝手に宙を飛んだらしい弁当箱は逆さまに着地して中身を吐き出していたし、体の下敷きになった右手は擦り剥けて流血沙汰になっていた。折れ曲がった釘がタイヤに深々と突き刺さっている自転車が使い物にならないのは明白だ。相当な摩擦を受けたであろうズボンが破れていなかったことを、不幸中の幸いと言うべきなのだろうか。
のろのろとした動作で自転車を引き起こして、散乱した荷物を拾い集める。転がったペットボトルを拾おうと伸ばした手が触れたのは、プラスチックの感触ではなく人肌のそれだった。
「え、」
「あ、」
間の抜けた声が二人分、朝の冷えた空気を震わせる。顔を上げると、自分と同じぐらいの年齢の男子が、自分と同じように手を伸ばしていた。いち早くボトルを取り上げて「どうぞ」と微笑んだ彼は、地域有数の進学校のブレザーに身を包んでいる。きっちりと留められた袖のボタンを見て、真面目な性格なのだろうか、と考えた。
「ありがとう…ございます、」
「いえ……って、うわ!」
いきなり頓狂な声を上げるのに何事かと彼の視線の先を追う。受け取ったボトルを伝った血液が地面に滴り落ちていた。視覚が及ぼす影響は多大で、つ、と垂れる赤色を見た途端に傷が痛みだす。思わず眉を顰めると、柔らかい布が手に添えられた。見ればそれは白いハンカチで、どうやら眼前の彼のものらしい。血液は確か落ちにくいんじゃなかったか。じわりと染み込む赤に慌てて手を引くと、先程より幾分強い力で押し当てられた。
「いや、あの、大丈夫ですから、」
「怪我してるじゃないですか!」
「でも、ハンカチが、」
「手当しますから、じっとしててください!」
噛み合わない会話に辟易としているうちに、相手は手慣れた様子でカバンからミネラルウォーターと救急セットのようなものを取り出す。ボトルのキャップを開けて「手、出してください」と強めの語調で言われてしまうと、従うより他になかった。傷口を洗い流して清潔なガーゼで拭き、消毒液を吹き付けて包帯を巻く。流れるような一連の動作に呆然としていると、きゅ、と布同士が擦れる音がした。
「はい、できましたよ……って、ああ!」
今度は何だろう、と身構える。包帯を持ったままの彼の口から飛び出したのは、謝罪の言葉だった。
「すみません!つい、いつもの癖で…!」
わたわたと両手を振って慌てる彼は保健委員か何かなのだろうか。仮にそうだとして、進学校の保健委員は救急セットを持ち歩くのだろうか。癖と言っていたけれど、彼の周りは怪我人が絶えないのだろうか。
湧き出る疑問を押し込めて「ありがとうございます、手慣れてるんですね」と返せば、安堵の色を浮かべて見せた。
「あの、ハンカチなんですけど。」
「いいですよ、そんな」
「俺の気が済まないんで。ちゃんと洗って返しますから、」
困ったようにうう、と小さく呻いた彼が折れるのに、そう時間はかからなかった。聞けば、彼は毎日この時間帯に、反対側の道からこの辺りに差し掛かるらしい。いつもは電車通学なのだと告げた日には、永遠にハンカチが持ち主の元へ帰れそうにないので黙っておくことにした。使い物にならなくなった自転車を引きながら二人で坂道を上る。カラカラとチェーンが回る音だけが響いていた。
「今更だけど、名前は?」
「クリフトです。えっと…ソロさん、でいいんですよね?」
「あれ、名乗ったっけ?」
「いえ、そこに、」
細い指が示した先は自転車の後部で、学校名と名前の書かれたシールがぺたりと貼られている。よく見てるな、と呟くと、照れたようにはにかんだ。別れ際に「また明日」と小さく手を振る姿に、くすぐったさを感じながら方向を変える。
早起きも悪くない。


勇クリさんは、「朝の坂道」で登場人物が「恋する」、「傷」という単語を使ったお話を考えて下さい。

(130617)



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