Dearest
「ふぅ」
パソコン画面から顔を上げて一息吐く。
新規プロジェクトの研究成果を、ようやく文書に起こすことができた時には、定時を既に5時間近く過ぎていた。
「お疲れさん」
落ち着いた低音とともに、差し出されたマグカップ。
ココアの甘い香りに振り返ると、優しく微笑む蔵ノ介。
「く……、じゃなくて、白石君」
「会社残ってんの、俺ら2人だけやから、名前で呼びや、桜架」
普段、家での呼び方をしそうになって、慌てて言い直すと、耳元で蔵ノ介が艶めいた声で囁いた。
びくり、と肩を震わせれば、意地悪く笑った蔵ノ介と目が合う。
……私がその声に弱いって知ってるくせに。
非難めいた視線を向けると、「すまんすまん」と頭を撫でる。
「まだ熱いから、気ぃつけや」
「うん。……ありがと、蔵ノ介」
白い湯気の立つカップを受け取って、息で冷ましながら口を付ける。
程よい甘さが、疲れた体に心地いい。
「……蔵ノ介も、疲れたでしょ?先、帰っててよかったのに」
隣の人の席を拝借して腰かける蔵ノ介を見上げる。
会社での彼は、私の部下。
今日は文書作成だけだったから、他のメンバーには帰宅するよう促したのに、蔵ノ介は、手伝いをしながらこんな時間まで残ってくれた。
「やって、桜架のおらん家に帰っても、つまらんもん」
「もんって……」
拗ねた子供みたいな口ぶりに、思わず苦笑が漏れる。
「それに、」
「わ、」
不意に腕を肩に回されて、彼の方に引き寄せられる。
「遅い時間にひとりで帰ってこさせるんは、嫌。桜架は危機感あれへんから」
「……相変わらず過保護だなぁ、蔵ノ介は」
「そうさせとるんは、桜架やろ」
彼の腕の中で、呆れたように言えば、不貞腐れたような声が降ってくる。
「……今日やって、チーフが必要以上にベタベタしとっても、逃げもせんかったやん」
「そうだっけ?」
サブチーフである私とチーフの松木さんは、役割上話すことは多いけど、蔵ノ介の言うところのベタベタに、思い当たる節がない。
「そうやろ。昼間、あいつ、飯にかこつけて桜架誘い出して。やたら手握ったり肩触ったりしとったやん」
「あれは、話の流れ上握手したりとか、体育会系なノリになって肩組んだりとか、そういうレベルだよ?」
「そういう流れに持ってくんが、松木の策やっちゅうねん」
抱きしめる腕に、ぎゅっと力が込められる。
普段なら、流石に上司へ敬意を払うことは忘れない蔵ノ介が、チーフのことをあいつとか苗字で呼び捨てにするあたり、昼間の出来事は、余程彼の腹に据えかねたようだ。
こういうところは、同棲するようになった今も、付き合い始めた高校生の頃とちっとも変わっていない。
「桜架は知らんかもしれへんけど、松木は百戦錬磨のタラシ男で有名なんやで?」
「へぇ、意外。誠実そうに見えるのに」
「やから、それが松木の策なんやって。ほら、やっぱし危機感ない」
「でも問題ないでしょう?蔵ノ介がいるんだから」
暗に、私には蔵ノ介だけだということを伝えてみる。
「それとも、私が松木さんに靡いちゃうとでも思った?」
「それは……、あれへん、けど」
蔵ノ介の顔を下から覗き込むように、首だけ上向けると、余裕たっぷりの笑顔が、珍しくたじろいでいた。
「けど?」
「それでも、嫌やねん。桜架が俺以外の男と仲良うしとんの見るんは」
「……嫉妬?」
「…………」
蔵ノ介がこうしてだんまりを決め込むときは、大抵図星だ。
こういう反応も昔から変わらない。
「ふふ、蔵ノ介可愛い」
「……男が可愛い言われても、嬉しないわ」
ぶすくれた声が聞こえると同時に、ぽすんと私の肩に蔵ノ介の頭が乗っかる。
「……なぁ、桜架」
「何?」
「もうじきこのプロジェクト終わるやんな?」
急に真面目な口調に変わる蔵ノ介。
「そうだね。けど、それがどうかした?」
「あー……、こんなとこで言うのもアレなんやけど……」
蔵ノ介は何故か、ほんのりと頬を紅く染めて、頭をがしがしと掻いて口籠る。
「何?」
そっぽを向いた蔵ノ介を見上げるように問いかけると、彼は何度か口元に手を当てて逡巡した後、観念したようにこちらを向いた。
「あんさ、桜架……」
いつになく柔らかな眼差しに、思わず心臓が大きく脈打つ。
「プロジェクトが終わったら……、結婚、せえへん?」
「……けっこん……って、あの結婚っ!?」
あまりにも唐突な話に、思考が追い付かない。
「結婚っちゅうたら、ひとつしかないやろ。てか、桜架テンパりすぎ」
意味不明なことを口走る私を見て、くすくすと笑う蔵ノ介。
あ、意地悪な笑い方じゃない笑顔見るの、久しぶりだ。
「そもそも俺ら、結婚前提で同棲しとったやん」
「や、まぁそれはそうなんだけど……。でも、もう少し先の話かと思ってたから……」
私と蔵ノ介が一緒に暮らし始めたのは、彼が大学院を卒業してすぐのこと。
だから、今から2年前になる。
「2年ならちょうどええ頃やろ。それとも何?俺と結婚するの嫌?」
「そんなこと、あるわけないでしょっ!」
じとっとした視線を寄越す蔵ノ介に、つい、口調が強くなる。
突然ボリュームの上がった声に、当の彼は目をぱちくりさせていた。
「……すごく、嬉しいよ。蔵ノ介から結婚しようって言ってくれたの」
深呼吸してから、自分の気持ちを蔵ノ介に伝える。
「ありがとう」
気恥ずかしさを堪えて、彼の瞳を真っ直ぐに見つめてお礼を言うと、すぐさま抱きしめられた。
「それは、OKってことでええんやな?」
「勿論」
「……おおきに」
蔵ノ介がそうしてるように、私も彼の背中に腕を回して頷くと、はにかんだような声が耳元で囁く。
「……桜架」
そして、ごく自然な動作で、彼の左手が私の頬をなぞる。
おのずと上向いた顔に、彼の顔が迫ってきて。
「――……」
微かな音で愛の言葉を紡いだ唇が、私のそれに重ねられた。
最愛のキミ
(ちゅうことで、桜架。これからは会社でも自分のこと呼び捨てにするから)
(へ?)
(勿論、桜架も俺のことは名前で呼ぶんやで?)
(ちょ、なんで、)
(何でもや。因みに明日から俺のこと苗字で呼んだらお仕置きやから、な?)
(っ!)
(わかった?)
(はい……)
(ええ子や(……何でて、虫除けに決まってるやろ))
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